【雨でも散歩は悪くない?】東急東横線・みなとみらい線を歩いてみた。

みなさんこんにちは。ホームドアです。6月も中旬に入り関東地方も梅雨を迎えましたね…?今年は梅雨に入ったのか怪しい天候ですが、梅雨ということにしておきましょう。

さて、5月末に「山手線を徒歩で一周してみた。」という記事を上げた私ですが、この度性懲りもなくまた鉄道沿線を歩いてきたのでレポート第2弾となります。

私自身、東急東横線自体は頻繁に利用するわけではないのですが居住地の関係から直通する副都心線内で車両を見かけることは多々あるほか、横浜(特にみなとみらい)にお出かけする際には利用させてもらっていますので、馴染みはそこそこあるというのがこの東横線。今回は渋谷→横浜、そして直通するみなとみらい線を歩いてきました。

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立体交差を眺めつつ

渋谷駅

さて、6月1日、東京は渋谷駅前におります。今回はここ渋谷から東急東横線沿線をひたすら歩いていきます。

写真には渋谷を象徴する独創的な高層ビルが2棟。左手に見えるのが2012年オープンの「渋谷ヒカリエ」、右手に見えるのは2019年オープンの「渋谷スクランブルスクエア(東棟)」

2013年の東急東横線地下化を受け、渋谷駅周辺では大型再開発プロジェクトが始動。そのトップバッターとして開業した渋谷ヒカリエは高さ182.5m、地下4階・地上34階となっており、地下層では東急東横線の渋谷駅と直結しているというのも特徴です。

17〜34階の高層階はオフィスフロアとなっている一方、11階〜16階は東急運営の劇場「東急シアターオーブ」となっておりかつてこの地にあった文化複合施設「東急文化会館」の名残が垣間見えるほか、10階より低層階は商業施設となっており、8階には渋谷区の行政サービスの一角を担う区民サービスセンターも入居しています。

一方で右手に見えるのは渋谷スクランブルスクエア。2031年度の中央棟・西棟開業を前に2019年11月に東棟がオープンしました。この東棟は蒲鉾屋根でもお馴染みの旧東横線渋谷駅跡地に建設され、商業施設やオフィスをはじめとし、最上階層である45階〜47階は展望施設「SHIBUYA SKY」となっており東京の景色を一望することができるのが特徴です。高さは229.7mとヒカリエをもゆうに越す高さとなっており、新時代の渋谷の一角を担う重要拠点となりそうです。

ちなみに、渋谷ヒカリエの開業1周年を記念し2013年より東急5050系4000番台、4110Fに「Shibuya Hikarie」ラッピングが施され、東急東横線のほかに副都心線やみなとみらい線、東武東上線、西武池袋線などでも運転されています。

画像提供:はくらく(@Hama_Tetu)様

代官山駅

9:34、最初の途中駅代官山に到着。2駅目にして渋谷区最後の駅です。

現在の代官山は高級住宅街としてのブランドが確立されているイメージですが、実は東横線の開通する1927年頃までは森の広がる場所でした。

“谷”→代官“山”と地形の変化が感じられる地名の流れですが、実際にはそこまで地形は変化していないのがポイント。地名の由来には諸説あり、“代官の屋敷があった”や、“代官が所有していた山林があった”などと“山”についてハッキリ明記している由来は少ない模様、地名の由来も謎が多くて興味がそそられます。

水を買うのをてっきり忘れていたので急遽コンビニに立ち寄り、目黒区へ。

中目黒駅

9:43、中目黒に到着。日比谷線とホームを共有しており、2013年に副都心線との直通を開始する前は日比谷線〜東急東横線の相互直通運転が行われていました。なお、現在でも線路は繋がっており、日比谷線の車両が東京メトロ鷺沼工場へ検査をする際にこの線路を用いて入出場しています。

中目黒といえば目黒川の桜。現在では“映えスポット”だとか取り上げられがちですが歴史は深く昭和2年(東横線開通年)に遡ります。当時の目黒川は氾濫しがちのいわゆる暴れ川。昭和初期から護岸工事が進められ、治水対策の一環として桜が植えられたというのがはじまりだと言われています。

当時植樹をするにあたって主体となったのは西郷隆盛の甥、西郷従徳氏。そういえばここら辺に“西郷山公園”なんて公園があったよな…。と調べたところ、従徳さんのお父さん、西郷従道さんの土地だったことに由来するようです。なんとなく頭の中で点と点が繋がったところで、次の駅へ。

祐天寺駅

9:54、線路横を歩き辿り着いたのは祐天寺駅東口、駅名の由来となった祐天寺は駅徒歩5分の位置にあります。

実はここから南東方向に1kmほど行った場所にかつて“目黒競馬場”がありました。1907年、日本競馬会によって現在の東京競馬場(府中市)の3分の1ほどの大きさの競馬場が開設され、帝室御賞典(天皇賞の前身)東京優駿大競走(日本ダービー)など日本の競馬史に残る実績を残すも、その馬場の狭さ町の発展の妨げになっているということを踏まえ1933年には府中に移転。現在の東京競馬場へと移り変わりました。

跡地は戦後の区画整理により外周の一部が道路として転用され、他はすべて住宅用地へ。他にも記念碑が“元競馬場前”バス停付近に設置されているほか“目黒記念”が毎年東京競馬場で開催され、今でも競馬界において目黒の名が残されています。

再び高架横を歩き次の駅へ。

学芸大学駅

10:07、学芸大学に到着。急行も停車します。駅名の由来となった東京学芸大学は1964年に東京都小金井市に移転し、現在では附属高校のみがこの地に残っています。

元々は1927年に碑文谷駅として開業。特徴的な地名ですが由来には諸説あるとされており、通説では碑文谷八幡宮に保存されている「碑文石(ひもんせき)」に因むとされています。

さて、東急東横線の大きな特徴の一つが“高架下施設”。現在、東横線で立体交差化が完了しているのは渋谷〜都立大学・田園調布〜菊名・東白楽〜横浜と路線の7割以上です。特に高架区間では高架下がデッドスペースになりがちですが、東横線では高架下を商業施設や飲食店をはじめとした高架下施設が充実しており、ここ学芸大学駅を中心とした「GAKUDAI KOUKASHITA」もその一つ。

2012年にオープンし8つのエリアから構成され、現在ではそのうち7つのエリアに飲食店やスーパーなどのテナントが入居しています。写真に映るマップは「学大横丁」のもの。学大横丁は高架下の2階層に飲食店が軒を連ねており、居酒屋やバーなどをはじめとした21の店舗(2025/6現在)が入居しています。

地域に溶け込んだ新たな商業形態、“高架下施設”が今、東横線で注目されているのです。

GAKUDAI KOUKASHITAでは他の高架下施設と比べて飲食店も充実しているのが特徴。

都立大学駅

10:25、次の都立大学駅に到着。学芸大学駅と同様、駅名の由来となった東京都立大学(首都大学東京→現:東京都立大学)は1991年に多摩市へ移転し附属高校も2011年に吸収合併という形で消滅したため、都立大学の地に都立大学の関連施設は0となってしまいました。

学芸大学駅と都立大学駅の2駅は駅名改称が多いのも特徴。都立大学駅は1927年に柿ノ木坂駅として開業し、1931年には府立高等前駅へと改称。その後も1952年までの間に3回の駅名改称(府立高等→都立高校→都立大学)を重ね現在の駅名へと至ります。ちなみに日本で最も駅名の改称回数が多いのは阪急千里線の関大前駅。1921年に花壇前駅として開業して以来7回もの改称が行われているようです…

さて、ここからは線路も地上に一瞬降りてきます。

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多摩川を渡河

自由が丘駅

10:39、自由が丘駅に到着。大井町線はお乗り換えです。S-TRAINを含めた全ての種別が停車し、終日にわたり各駅停車⇄優等種別緩急接続が実施されています。

自由が丘といえば東京でも“オシャレ”を象徴する街。実は私も初めて自由が丘の駅前に出たのですが、高級感漂う街並みでした…

自由が丘など縁起の良い単語や文字を織り交ぜた地名のことを「瑞祥地名」と呼びます。東急電鉄は東急主体の新興住宅街が多く見られる故、瑞祥地名も多数あり田園都市線の「つきみ野」や「あざみ野」などがそれにあたります。ちなみに昭和前半の地図を見ていると当初の地名がまだ残っていることが多く、ここ自由が丘は「谷畑」だった模様。“丘”なのに“谷”…。縁起や語感の良さや優先されるがあまり、地形からとられることが少ないのも瑞祥地名の特徴。必ずしもというわけではありませんが、災害時にその地形がガッツリ被害をもたらす、なんてこともあることは注意が必要ですね。

さて、話が変な方向に行きましたが再び歩みを進めましょう。世田谷区をまたいで大田区へ。

田園調布駅

10:55、田園調布駅に到着、都内屈指の高級住宅街でもあり、駅前からすでにただならぬ高級感が漂っていました。写真に映るのは2000年に復元された旧駅舎、現在使用している駅舎は階段を降りた半地下部に置かれています。

田園調布の地図を見ると道路が特徴的な形で配置されていますが、これは東急電鉄の始まりの一つでもある会社「田園都市」が東横線の開通と同時期の1928年に田園調布の街を開発したことから駅を中心とした同心円状に道路が整備されているのです。これを東急ではパリを倣った“エトワール式道路”と呼称しているようです。豊かな緑と落ち着いた街並みは現代でも通用する先進的な都市構造だったのでしょう。

ちなみにこの田園都市株式会社を設立したのはかの渋沢栄一。まさかこんなプロジェクトにも関わっていたのですね。

さて、大田区を南下し東京都最後の駅へ。

多摩川駅

11:07、多摩川駅に到着。東急多摩川線は東横線とは別の階層から発車します。

元々は目黒駅から多摩川駅を経由し蒲田駅へ直通していた東急目蒲線。1923年に目黒蒲田電鉄として開業して以来、67年間にわたってこのような運行形態をとっていました。2000年8月に営団南北線都営三田線との直通運転を開始するにあたり、現在の目黒線と東急多摩川線という2路線へと分離されたのです。

これにあたり多摩川駅だけでなく、目黒駅や大岡山駅、田園調布駅をはじめとした駅の大規模改良工事が行われ、目黒線分割後も不動前〜大岡山間の立体交差化が実施されるなど大きな影響をもたらした目蒲線分割。現在では目黒線は2023年より相鉄線との直通運転を開始するなど進化が止まらない一方で蒲蒲線計画により大きな変化が見込まれる東急多摩川線、それぞれの今後の発展にも期待です。

丸子橋で多摩川を渡河。ついに神奈川県へと進入です。晴天の日曜日ということもあり河川敷はイベントで賑わっている様子でした。

新丸子駅

11:24、神奈川県最初の駅である新丸子駅に到着です。

またまた東急多摩川線の話題になってしまうのですが、対岸の東京都大田区に“下丸子”という駅があります(多摩川駅項の路線図を参照)。なぜ対岸の東京都にも同じ地名があるのか、これには多摩川が深く関係しています。

多摩川は元々蛇行を繰り返すいわゆる“暴れ川”であり度々洪水を起こしてきました。治水事業を行い川の付け替えを行なったところ集落が東京側と神奈川側に分断。その結果東京側の丸子には下丸子駅が、神奈川側の丸子には新丸子駅が置かれたのです。このような例は近隣にもあり、東急大井町線の等々力駅(東京・世田谷区)と等々力陸上競技場(神奈川・川崎市)など、川の流路の変化によって異なる都県で同じ地名が見られるようになりました。

もうすでに目の前には多数の高層マンションがそびえ立っています、次の駅へ。

武蔵小杉駅

11:32、武蔵小杉駅に到着。直交するJR南武線の通路をまたいでやってきました。駅前には多数の商業施設に乱立する超高層マンション。23区内では逆にあまり見られない不思議な光景な気もします(どことなく晴海や勝どきは似ているかもしれません)。

武蔵小杉でよく話題になるのが「呼び方」。武蔵小杉の再開発プロジェクトを機に川崎市が「MUSACO(ムサコ)」との愛称をつけましたが地元での浸透度はイマイチ。メディアでは度々「ムサコ」と呼ばれるためそのように認知している人もいるかもしれません、が、地元ではもっぱら「小杉」と略されます。このあたり(特に南武線)では「武蔵中原」「武蔵新城」「武蔵溝ノ口」と“武蔵”を冠する駅名が並んでいることから、武蔵を省いた地名をそのまま略称として呼んでいることが多いのでしょう。私は川崎市民の友人が多くなってきた故、ここ数年は「小杉」を貫き通しています。

ちなみに「ムサコ」と呼ぶと時に“武蔵小山”“武蔵小金井”などと誤解されるケースもあったりなかったりするので注意しましょう。

さて、高層マンション群を抜けて再び閑静な住宅街へ。

元住吉駅

11:46、元住吉駅に到着。川崎市最後の駅になります。

元住吉駅は駅近くに検車区を備えた駅、東急電鉄の車両だけでなく東横線・目黒線へ直通する東京メトロ都営地下鉄西武鉄道など多くの会社線の車両が留置されているほか、各停のみの停車駅ながらも入出庫は頻繁に行われてい一方、配線の都合上隣の武蔵小杉始発となっています。

一部の検査機能を担っている元住吉検車区ですが、敷地が手狭なこともあり10両編成の車両をはじめとした一部の車両は大井町線を経由しより大きな検査機能をもつ長津田検車区へと回送され検査を受けることに。敷地に対する車両収容機能はピカイチなものの、検査機能はやはり全体的に“大きい”長津田に軍配が上がるようです。

さて、川崎市を抜けて次の駅へと向かいます。

横浜市に突入

日吉駅

12:04、横浜市港北区は日吉駅に到着しました。東横線の中でも学生の多い街で、慶應義塾大学日吉キャンパスをはじめ多くの学校が日吉に位置しています。この旅で来るまで知らなかったのですが、慶應のキャンパスと商店街は駅を挟んで反対側にあるんですね…

かつては2面4線構造のうちすべての線路を東横線が使用しており、引き込み線も日比谷線直通電車の折り返しに使用されていましたが2008年6月の目黒線日吉延伸を機に内側の2線を目黒線に引き渡し。これにより日吉での東横線下り電車の折り返しは廃止され、日比谷線直通電車は終日にわたって菊名まで運行区間を延長することによって代替しました。

そんな運行拠点でもある日吉駅からは2023年3月に東急新横浜線が開業。東横線・目黒線それぞれから新横浜を経由し相鉄線へと直通するという一大プロジェクトでもあり新横浜、そして新幹線へのアクセスが飛躍的に向上しました。今後は新横浜線に加え新空港線(蒲蒲線)プロジェクトが発展するであろう東横線、日吉が更なる進化を遂げる日は来るのでしょうか。

さて、ここからは東横線内でも駅間最長距離の区間です。ひたすら、がんばります。

綱島駅

12:34、綱島駅に到着。新横浜線の新綱島駅は徒歩圏内です。ここら辺で食べておかないと食べ時を逃すと思い昼食を摂取。東急おなじみの「しぶそば」さんに入店しつつ今後のルートを模索します。ちなみに立ち食いスペースしか空いておらず休憩にはならなかった模様(自業自得ですね)。

綱島はかつて温泉街として賑わった街。こんなところに温泉が?と思う方もいるかもしれませんが、あったんです。1914年、とある菓子商が井戸を掘ったところ赤い水が湧出。ラジウム温泉であることが発覚し、3年後には綱島で初の温泉旅館が開館し、1926年には当時の東京横浜電鉄綱島温泉駅が開業、翌年には電鉄直営の銭湯も設けられました。戦時中は旅館の廃業令から温泉街としての風格は廃れましたが戦後の1960年代前半に再興の上最盛期を迎えます。しかしながら1968年には東名高速道路、翌69年には小田原厚木道路の開通により箱根や伊豆など都心から離れた保養地へのアクセスが抜群に向上。綱島温泉は相対的に人気を減らす一方であったのでした。その後も再開発という形が採られ温泉旅館をマンションや商業施設などに転換が進み綱島の温泉は徐々に衰退していくばかりでありました。

2008年には最後の旅館が閉館し、綱島温泉街での旅館業が終焉を迎えます。終戦直後より営業していた銭湯は東急新横浜線の工事に伴い閉館。現在では新規のスーパー銭湯が1店舗開業するほかには昭和期から残る2件の銭湯、合計3件しか“綱島温泉”を楽しめる場所はありませんが、ここ数年でも新綱島駅の駅名候補に「綱島温泉駅」が上位にランクインするなど綱島には温泉が深く根付いていることがわかります。

さて、昼食を食べ終わったので次の駅へと向かいましょう。

大倉山駅

13:04、大倉山駅に到着。東急新横浜線は当駅の直下を通っていますが駅は設置されていません。

“大倉山駅”は日本に2駅あり、ここ横浜の大倉山駅のほかに、神戸にも大倉山駅が存在しています。しかしながらその2駅を差し置いて全国的な知名度は恐らくスキーで有名な札幌・大倉山の方が高いのではないでしょうか(汗)

どの大倉山も由来は名前の大倉さんに由来します。ここ神奈川の大倉山は実業家・大倉邦彦氏から、神戸の大倉山は商人の大倉喜八郎氏から、札幌の大倉山は開発した大倉喜七郎氏からとられています。

名前から地名をとるというのは少なくないケース。このような地名を探してみるのも面白いですね。

菊名駅

13:22、菊名駅に到着。JR横浜線が東横線に直交します。

「聞くな」などと車内放送で聞き取れる菊名。もちろん由来はソレではなく「ククナ」という古語に由来します。

「ククナ」は奥まったところを意味する古語で谷状の場所になっていることを表し、実際に標高を地図で確認すると周囲よりも明らかに標高が低く、東横線は谷底に敷かれていることもわかります。実際に菊名周辺は坂が非常に多く大変でした…。それが転じ「菊名」となり1926年、神奈川県橘樹郡大綱村菊名となったころに現在の東横線が開通。現在へと至ります。

菊名は乗り換え駅かつ緩急接続を終日実施している駅。自由が丘とともに東横線のハブ地点となっています。

さて、坂を上がって次の駅へ。

妙蓮寺駅

13:41、妙蓮寺駅に到着。右手に映るのは駅名の由来にもなった長光山妙蓮寺

妙蓮寺は1350年、現在の横浜市神奈川区東神奈川(神明町)に妙仙寺を建立したことから始まります。名前が現在と異なるのには訳があり…。1908年、横浜鉄道臨港線、現在のJR横浜線を建設するにあたり移転が決定。この地にあった蓮光寺へと移転してきた妙仙寺は「仙寺」・「光寺」の2文字をとり妙蓮寺へと改名しました。1926年には現在の東横線が開通し妙蓮寺駅が開業。付近の発展にくわえ、寺院の知名度向上へとつながることとなります。

鉄道と深い関わりのある“妙蓮寺”。このように「鉄道と〇〇」と異なるテーマを調べるのも楽しいですね。

さて、妙蓮寺駅を過ぎ線路沿いをひた歩きます。

白楽駅

13:54、白楽駅に到着。各駅停車のみ停車ながらも利用者数は多く、大倉山・都立大学に次ぎ急行通過駅としては第3位の利用者数となります。

駅前にあるのは六角橋商店街。現在でも賑わう商店街ですが、過去にはこんな話があったとされます。

1985年、横浜市営地下鉄ブルーラインが開通するにあたり横浜〜新横浜を直線的に結ぶルートが計画されていました。しかしながらごく一部の住民が横浜市中心部へ人の流動を防ぐため反対したという一説があり、現在の三ツ沢〜片倉町という迂回したルートで建設されました。しかしながら現在では人の流動はおろか、空きテナントがほぼ無くなるほど活況を呈しており、地下鉄が建設されたらどうなっていたのだろう、と気になる一方です。

とはいえ、地域の昔ながらの商店街が活況を見せるというのはどことなく懐かしく、和む雰囲気ですね。大型ショッピングモール開業の波も各地である中、このような商店街は頑張って欲しいものです。

東白楽駅

14:04、東白楽駅に到着。この先は東横線の地下区間へと入ります。

“白楽”の由来は職業から。東海道神奈川宿の近くに位置していたことから馬の治療や仲買を行う“伯楽”が転じたものとなっています。ちなみに伯楽は「馬喰」とも書き、東京都中央区の馬喰町とも同じ由来とされています。ここで2本目の水を購入、脱水症状は勘弁です。

もう横浜は目前、急ぐ必要もないのに先を急ぎます。

反町駅

14:21、反町駅に到着。東横線最後の途中駅です。

ここは2004年のみなとみらい線開通にあたり地下化された区間。線路跡は東横フラワー緑道として転用され、線路の真上が緑道として整備されています。ちなみに、このように地下化された区間の地上を緑道として整備しているのはここだけでなく、目黒線の武蔵小山〜洗足でも同じように整備がされています。

線路跡が整備された故、丘陵地を貫くトンネルも線路同様に敷設されています。ここは高島山トンネル。反町〜横浜間にある丘陵地“高島山”を貫き通すため東横線時代からあり、改修工事を経て現在は反町〜横浜間を短絡する遊歩道となっています。

ここまで来れば横浜はもう目前。フラワー緑道を歩きつつ横浜を目指します。

みなとみらい線へ

横浜駅

14:41、横浜駅に到着。ここからはみなとみらい線に入ります。

2004年、みなとみらい線横浜〜元町・中華街が開通し東横線との直通運転を開始するにあたって、東横線の横浜〜桜木町が廃止されました。旧高島町駅は新高島駅横浜市営地下鉄高島町駅、桜木町駅は少し離れつつもみなとみらい駅の他、並行する横浜市営地下鉄・JR根岸線の桜木町駅が代替アクセス手段となっています。

現在でも横浜〜桜木町の高架跡は一部残されており、反町〜横浜と同じように遊歩道として整備することとなっていますが、高架区間で幅狭ということもあり思うように整備が難しいのがネック。経年劣化もあり高架橋を解体し、線路用地跡の地上に遊歩道を整備する案が浮上しています。現在は計画の再策定中。これからが楽しみです。

さて、みなとみらい線へ。

新高島駅

14:50、みなとみらい線最初の途中駅、新高島駅に到着。

当初の計画では設置予定がなかったこの駅。周辺住民の要望もあり急遽建設が決まりながらも駅スペースを確保しました。現在ではアンパンマンミュージアムや日産本社、京急ミュージアムなど駅開業後にオープン施設も多数あり、徐々に利用者数を伸ばします。

東横線のホームは8両編成対応にプラスし非常時に10両編成が停車できるよう2両分の延伸ホームが設置されているのが特徴。みなとみらい線でも整備されていますが、ここ新高島駅は延伸部のスペース確保が難しかったことから必要最低限の乗降部のみ整備されています。恐らくこの駅さえ非常ホームの建設を乗り越えられたら各駅停車の10両編成化が可能となりそうです…。

さて、線路は海底トンネルを通ってみなとみらいへ。道路では大回りすることとなります。

みなとみらい駅

15:03、みなとみらい駅に到着。みなとみらい21地区の中心駅となっており、みなとみらい線の途中駅としては唯一特急が停車します。

みなとみらいは元々工業地域として埋め立てられた場所。1990年頃から開発が進められました。1993年には当時日本で最も高い高層ビルであった横浜ランドマークタワーが開業、1999年には観覧車が横浜のシンボルともなっているよこはまコスモワールドもオープン。急速に再開発が進められた地区でもあります。

そのような観点もありみなとみらい線の駅はデザインに凝った作りも取り入れられており、ここみなとみらい駅は地下駅ながらも商業施設「クイーンズスクエア横浜」の直下に位置し吹き抜け構造となっているのも特徴です。そんなみなとみらい線の駅の雰囲気が好きなのは私だけではないはず。時々行くとオシャレだなぁ…と感心するものがあります。

さて、いよいよ終盤へ。

馬車道駅

15:19、馬車道駅に到着。2020年に横浜市役所が当地区に移転してきたことから(横浜市役所)の副駅名が付与されています。

駅周辺は古くから残る建造物も多数あり、駅のデザインはモダンなレンガを基調とした作り。横浜赤レンガ倉庫をはじめとした複数の歴史的建造物があり横浜でも文化的な側面を見せる地区となっています。

馬車道というのは横浜港開港後、外国人は関内地域に居留地を構え、横浜港と居留地を馬で行き来していたことにはじまります。日本人には馬車の文化がなくそのインパクトから“馬車道”と名付けられ現在にも駅名に残ります。文明開化ではガス灯やアイスクリームなどの発祥地でもあり、異国との交流拠点にもなっています。

日本大通り駅

15:27、日本大通り駅に到着。こちらは県庁最寄駅であることから(県庁・大さん橋)との副駅名が付与されています。

横浜スタジアムに近いことから駅の装飾は横浜DeNAベイスターズ一色。ワンマン運転が開始される前は発車メロディに球団歌である「熱き星たちよ」や応援歌「勇者の遺伝子」が使用されていました。

日本大通りも外国人居留地に由来します。横浜港と横浜公園を結ぶにあたって日本大通と命名された大通りは日本初の西洋式街路。関東大震災の復興を機に幅員が削られるも、今でも日本初の西洋式街路としてその街並みをのこしています。

さて、みなとみらい線も終盤へ差し掛かります。

元町・中華街駅

15:39、みなとみらい線の終点、元町・中華街駅に到着。駅舎には横浜高速鉄道の本社屋が入っています。

駅は「・」が意味するように元町側中華街側に分かれており、隣り合っているとは思えない街の移り変わりが面白いのが特徴です。

元町商店街は元町通りを中心に栄えた商店街、高級店や昔ながらのお店が並び、横浜の中でもオシャレな雰囲気を醸し出しています。一方で横浜中華街は1859年の外国人居留地にはじまる歴史ある中華街。多くの飲食店や雑貨屋、横浜媽祖廟など中国にまつわる店が立ち並び、みなとみらい線の開通によりさらに人気が増しています。

みなとみらい線は現在ここまで、しかしながら自社の持っていない留置線機能をこの先に建設する計画があるほか、かつてはこの先、本牧・根岸方面への延伸を計画していました。今回はこの先、本牧を経由し根岸へと歩いていきいます。

延伸計画を見る

港の見える丘公園

15:45、港の見える丘公園に到着。元町から急坂を上がり、横浜外国人墓地の横に位置します。その名の通り横浜港を一望することができ、遠景には横浜〜川崎の湾岸部を結ぶ横浜ベイブリッジを見ることもできます。

港の見える丘公園の直下にみなとみらい線の留置線を建設する計画が現在立っています。2025年現在、みなとみらい線のY500系車両は東急電鉄の元住吉検車区を間借りして留置している状態が続いていますが、車庫機能の借用期限が2024年に満了することとなっており、早急の対応が必要であることから自社で留置線を建設する計画が浮上しました。元町・中華街駅から500mほど延伸し新たに4本の留置機能を設ける予定となっています。

ここからは未成線、横浜環状鉄道の一部を見ていきましょう。

中区本牧原

16:11、中区は本牧原に到着。本牧エリアの中心部でイオン本牧店など商業施設が並びます。

本牧は中心部で6000人ほどの人口があるにも関わらず鉄道空白地帯なのが特徴。この地域は戦後に米軍が買収し、「ベイサイド・コート」という名の米軍住宅街となり1982年に返還されるまでは周囲とは区切られた未開の地でもありました。現在でも街並みには外国の雰囲気が漂う場所もあり外国の方も多く見られます。本牧エリアからは根岸線の各駅へ路線バスが発着しておりメインの交通機関は専らバスになっていますが、ここにも鉄道が来る計画が。

横浜環状鉄道は横浜市内を円のように近郊を結ぶもので、鶴見〜日吉〜中山〜二俣川〜東戸塚〜上大岡〜根岸〜元町とグルっと一周するようになっています。根岸から元町を結ぶにあたり本牧を通るルートが計画されていますが、本牧地域ではストロー効果(交通機関の整備によって市街地に人が流出すること)を危惧し反対派の意見も。一見便利に思えますが中々難しい点もあるようですね。

さて、ここからは根岸線に合流するように歩いていきます。

根岸駅

16:48、JR根岸線は根岸駅に到着。今回はここで締めます。横浜環状鉄道はここから北西に針路を変え京急線の上大岡駅へとつなぎます。

根岸駅は根岸線のホームに加え貨物ヤードが整備されており、ここからは貨物線である神奈川臨海鉄道が本牧方面へ伸びる他、ENEOS根岸製油所への専用貨物線も伸びています。主に関東甲信越の各地へタンク車で石油製品が運搬され、松本や高崎、宇都宮などへ貨物列車によって運ばれるのが特徴。あいにく私は貨物に詳しくないので「八王子で見たことあるやつ」くらいの認識でしたが実際調べてみると日本の貨物輸送のすごさを実感します。

さて、ここからは電車で帰宅。東横特急の速さを改めて実感するのでした。

まとめ

総徒歩距離は39.75km、完歩には7時間35分と山手線よりも多少数値は小さくなりましたが、歩数は坂も多かった故51,643歩と山手線を越してきました。ちょっと嬉しいです。

さいごに

前回は脱水症状になったのがマズかったですが今回はハイペースで水を購入、摂取でなんとか回避することができました。再三になるのですが、徒歩旅は楽しさを引き換えに体調管理には注意が必要です。

涼しい日を見つけつつ、あなたも徒歩旅、いかがでしょうか。

この記事を書いた人
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記事執筆がんばります。

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