【東日本大震災から14年】仙石線の被害と3353Sの奇跡

この記事では東日本大震災を扱っていますので、閲覧には十分ご注意ください。

今から遡ること14年前の2011(平成23)年3月11日14時46分、国内観測史上最大の地震が発生しました。この地震は地震規模9.0(Mw)、最大震度7を観測したほか巨大津波を引き起こし、「東日本大震災」と総称される地震災害に発展しました。

特に三陸沿岸の津波被害は甚大で、沿岸に到達した津波は三陸地方特有のリアス海岸を襲い、漁船や民家、車などを次々と飲み込んでいきました。当時の私は幼いながらも物心はついており、東北の町に馴染みがあったので、津波を追う中継映像は今でも鮮明に記憶に残っています。親族から、「つなみですべてながされてしまった」と手紙を貰ったときの気持ちというのは言葉では表現できない悲しみでした。

そんな津波は、沿岸の鉄道をも容赦なく破壊していきました。特に被害が大きかった路線のひとつが、宮城県沿岸を通り、石巻市へと続くJR仙石線です。仙石線は名前のとおり、仙台市のあおば通駅から石巻市の石巻駅までを結ぶ鉄道ですが、その途中区間、陸前浜田~野蒜は特に沿岸地域を走るため、結果的に大きな津波被害を受けることになりました。今回はこの仙石線を中心に、東日本大震災と鉄道の被害についてみていきましょう。

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地震発生そのとき

2011年3月11日14時46分、仙石線の沿岸地域には3本の車両が存在しました。そのうち、1本は始発駅の石巻駅で停車中の下り列車(M7編成)で、残り2本はほぼ同時に野蒜駅を発車した直後です。野蒜駅を発車した上り列車は、仙台・あおば通行の普通列車1426S(M9編成)、野蒜駅を発車した下り列車は、石巻行快速列車3353S(M16編成)でした。

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運命を分けた上下線の2列車

上り1426S

地震発生からまもなくして野蒜駅周辺にも大津波警報が発令されます。野蒜駅から仙台湾までは直線距離にして500メートル強、さらに野蒜駅から東名駅にかけてはさえぎるような建造物が存在しないため、上り列車の1426Sは極めて危険な状況でした。1426S(M9編成)の乗務員は指令の指示により、最寄りの指定避難場所(野蒜小学校)に避難するよう乗客に伝えました。津波警報が発令された場合に原則として最寄りの指定避難場所に避難するというのは正しい判断であり、現在も東北地方の鉄道車両にはその案内が掲示されています。

1426Sとして運転していたM9編成が残された野蒜~東名間の区間には地震発生から約1時間後の15時40分に、高さ10.35mの津波第一波が到達しました。M9編成はこの津波によって押し流され、4両すべての車両が脱線し大破しました。

1426S列車(M9編成)の実際の写真(Wikipedia記事内の写真より引用 ©ChiefHira)

指令、乗務員の指示により乗客乗員は野蒜小学校へ全員が避難し、この車両には1名も取り残されていませんでした。しかしながら、避難先の野蒜小学校にも津波が到達し、少なくとも乗客1名が犠牲になっています。

下り3353S

地震発生時、野蒜駅を出発して陸前小野駅へと向かう途中だった快速石巻行3353S(M16編成)が停車したのは、野蒜駅の北東600mに位置する急カーブに差し掛かった箇所。野蒜運河と並走する形で進んでいた仙石線が少し内陸に進路をかえるこの急カーブは、25‰の急勾配でもあり、緊急停車した場所は「丘の頂上」でした。

高台に位置するとはいえど、この地区にも大津波警報が発令されたため、指令の指示により一度は野蒜小学校への避難を呼びかけます。しかし、乗客の中に土地勘のある元消防団員が乗車しており、乗務員に対してこのように助言したそうです。

野蒜小学校に行くよりも、この小高い丘の上だと、2階建ての屋根くらいの高さになるから、もし津波が来た場合は、こっちの方が高台だから、安全じゃないのか

この乗客の助言を受けて、乗客乗員は車内にとどまることになりました。この丘は標高約10m、野蒜地区に到達した津波も約10m(第一波)。この3353Sは津波に押し流されることも、津波を被ることもなく、丘の上で無事でした。

震災後の仙石線

東日本大震災における仙石線の被害は小さいとは決していえないものでした。仙石線全線に占める沿岸部の割合は約7割であったため、仙石線は津波の被害を強く受けることになり、線路流出は3km以上にわたったといいます。地震の被害を含めると軌道変位312箇所、ホーム・橋梁被害計31箇所、電化設備の被害は津波の影響で調査不明なほどでした。

震災直後は仙石線は全線で運休となっていましたが、2011年7月16日までにあおば通~高城町、矢本~石巻で運転が再開されました。なお、矢本~石巻間の電化設備は震災によって被害を受け、復旧が済んでいなかったため、このときは小牛田所属のキハ110系を使用して運行していました。このときの気動車の使用は、全線復旧後に開通する仙石東北ラインの運行形態に繋がることになります。また、翌年の3月には陸前小野~矢本も運転が再開されました。

復旧に時間を要したのが、線路流出などの被害が顕著だった高城町~陸前小野間です。この区間は仙石線で最も仙台湾に接近する区間のひとつとなっており、線路再建に際しては複数の案が挙げられ検討されました。

元々地震災害の多い宮城県では、今後も新たな地震やそれに伴う津波が襲う可能性があります。そのため、元通りに線路を復旧させるのではなく、津波による被害を減らすために線路を内陸に移設したり、高架線として再建したりするなどの計画が挙がり検討が進められました。その結果、陸前小野~陸前大塚間を500m内陸に移設し、従来位置に再建する区間もかさ上げや一部高架へ移設することが決まりました。

震災から4年が経った2015年5月30日、仙石線は全線で運転を再開し、あおば通―石巻間が再び繋がりました。

〝生き証人〟M16編成

あの日、沿岸で被災した3つの列車。1426Sとして野蒜駅を発車したM9編成は、津波に押し流されて大破。この車両は現地で解体されました。そして、石巻駅で津波により浸水したM7編成は、被害が床下機器の浸水に留まり、車両自体に大きな損傷はなかったためしばらく留置されたのちに、総合車両製作所に修理のため運ばれました。しかし修理はできなかったのか、運用に復帰することはなく、東武鉄道の北館林車両解体所で解体となりました。

津波の被害をうけた2編成8両が解体となるなか、津波の直接的な被害を受けなかったM16編成は現在も仙石線で活躍しています。震災で被災した車両はそのほとんどが解体され、津波で流され大破した常磐線の車両も解体こそされていないものの、社員研修施設でのみ展示しています。そんななか、津波を目前にした車両が現在もなお、運転をしていることはかなり奇跡的なことではないでしょうか。

3553Sとして実際に運転していたM16編成は今もなお、運用に入っている。

編集後記

M16編成が実際に停車した高台は現在、「奇跡の丘」として案内板などが設置されています。また、旧野蒜駅があった場所には、辛うじて残ったホームや線路が震災遺構として保存されています。旧野蒜駅の駅舎もまた、東松島市震災復興伝承館として使用されています。

毎年3月11日が近づくと、当時の津波の映像がテレビなどで放送され、凄惨な被害のようすが印象に残ります。しかし、震災からは既に14年が経ち、小学生は全員が震災を知らない世代になりました。震災を経験していない年齢の子どもたちが、実際の津波の映像を見ても実感がわかないのは当たり前のことです。あのときの感じは、教科書的な情報では伝わらないと私は思います。

震災では、死者・行方不明者2,2228人にものぼる大きな被害があった一方で、この仙石線のような奇跡に近い出来事があったことも事実です。悲しい出来事、すさまじい被害の記録ばかりを残していくのではなく、奇跡といえる出来事を残していくことも、「震災伝承」のひとつのありかたなのではないかと思います。

改めて、平成23年の東日本大震災で犠牲になった皆様に哀悼の意を表するとともに、被災された全ての皆様の生活、被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

この記事を書いた人

とうほくらいん
とうほくらいん東北本線を愛する大学生
東北本線にまつわる記事を中心に執筆しています。深い記事を少しずつ、皆様にとって新たな東北本線との出会いがありますように...

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