【架空鉄・洛嶺電鉄制作記#8】 栄光の鉄路・小浜鉄道線 Ⅱ

前回は、洛嶺電鉄の小浜線系統について軽く触れてきました。洛嶺「電鉄」の路線なのに非電化であるというあまりにもイカれた路線でしたね。それでは、今回は、小浜線系統・小浜鉄道の廃止までの経緯と、廃止日当日について記述をしていきます。

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小浜線系統の経営移管まで

小浜軌道の合併と経営不振

1943年、小浜軌道は洛嶺電鉄に合併されました。この小浜軌道の合併により、洛嶺は非電化路線も保有することになりました。そんな小浜軌道の合併の理由は「小浜軌道自体の経営不振」。故に、洛嶺に移管したところで、その利用状況が改善される訳がない、というのは火を見るよりも明らかでした。しかしながら、1950年代のサービスの改善によって、ある程度はその状況から回復したそうです。ラキハ10形気動車を導入した1955年あたりが、この小浜線系統のピークとも言えるでしょう。

ただ、それも束の間でした。1958年度以降、旅客数は減少の一途を辿りました。

1952年度1,570,531
1953年度1,598,273 +27,742
1954年度1,623,560+25,287
1955年度1,629,650+6090
1956年度1,630,530+880
1957年度1,631,523+993
1958年度1,610,850−20673
1959年度1,601,953−8897
1960年度1,583,256−18697
1961年度1,543,280−39976
右2列の単位は「人」です。

上の表は、洛嶺小浜線系統の年度別の利用者数です。ご覧の通り、1958年度以降、かなりのペースで減少していることがお分かりいただけるかと思います。むろん、それ以降も旅客数は減り続け、1966年4月、洛嶺は「小浜線系統の維持は困難であり、路線廃止も視野に入れている」と発表しました。これに猛反発したのが沿線市町村でした。特に、小浜市や名田庄村では貴重な交通手段となっており、廃線に反対する署名運動も行われました。

小浜線系統の減便

この廃線の表明以後である1966年7月23日の改正(廃線検討表明後初のダイヤ改正)では、小浜線系統の列車が減便されました。小浜本線や江若線についてはその減りはあまり大きなものではありませんでしたが、名田庄線は半数程度が運転を取りやめました。ここでは、例として名田庄線の途中駅、久坂駅の発着本数について見ていきます。 

  • 1966年7月22日まで
    • 朝7時台は、小浜方面が3本、名田庄下町方面が2本発着していた。
    • 朝8時台は、両方面ともに2本列車が発着していた。
    • 朝9時台は、小浜方面が1本発着し、名田庄下町方面は発着なし。
    • 夜5時台は、小浜方面が2本、名田庄下町方面が3本発着していた。
    • 夜6時台は、両方面ともに2本列車が発着していた。
    • 夜7時台は、小浜方面が1本、名田庄下町方面が2本発着していた。
  • 1966年7月23日以降
    • 朝7時台から9時台までは、両方面ともに列車が1本ずつ発着していた。
    • 小浜方面の列車は、9時35分発の次は11時5分発。
    • 名田庄下町方面の列車は、9時10分発の次は10時50分発。
    • 夜5時台から7時台までは、両方面に列車が1本ずつ発着していた。
    • 小浜方面の列車は、7時44分発の次は9時25分発。
    • 名田庄下町方面の列車は、7時25分の次は8時55分発。

こりゃひどい

江若線の廃止と経営移管

江若線は、この小浜線系統の中では最も利用者が多く、収益源となっていましたが、いくつもの転機が訪れます。まず、1967年に沿線自治体である福井県遠敷郡上中町(現・若狭町)、及び滋賀県高島郡今津町(現・高島市)が廃線を受け入れたことです。これにより、江若線が1969年度限りで廃線となることが決定しました。大きな収益源とはいえ赤字であったため、洛嶺からしたら一刻も早く手放したかったのでしょう。さらに、1969年5月、直通先である江若鉄道と日本鉄道建設公団との間で買収契約が成立し、江若鉄道も廃線になることとなりました。洛嶺は、この江若鉄道の廃止日にあわせ洛嶺江若線も廃線とするため、廃止の前倒しを申請し、許可されました。そして、1969年10月31日、最後の直通列車がそれぞれ小浜・大津まで走り抜き、江若線は、江若鉄道と共にその歴史に幕を下ろしたのでした。

一方、小浜市や名田庄村の姿勢はそれでも変わらず、議論は半ば泥沼状態になっていました。しかし、1972年9月、ようやく話がまとまりました。それが、第三セクター鉄道への経営移管です。今でこそ万葉線や養老鉄道などの類似例はありますが、その先駆けとなったのがこの事例です。そうして、小浜市・名田庄村がそれぞれ4割、洛嶺電鉄が2割出資し、小浜鉄道が1972年12月に設立されたのです。そして、1974年4月1日、残存していた全区間がこの小浜鉄道によって引き継がれました。当初は、1983年度までは必ず存続させる予定でした。

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短かった小浜鉄道

小浜鉄道の経営悪化 

 こうして小浜鉄道に引き継がれた小浜本線・名田庄線でしたが、経営移管しても経営状況が改善されるはずがありませんでした。同社は、可能な限りの増便(予備車をほぼ全て駆り出した)などの利用者を増やす施策や、希望退職者の募集などによる経営費削減など、なるべく資金繰りの状況が改善するよう努力はしました。しかし、その努力も虚しく、利用者はますます減少しました。

 また、こんなこともありました。1980年12月から翌年1月にかけて、「五六積雪」と呼ばれる強い積雪があり、小浜市にも50cm近くの雪が積もりました。小浜市内や名田庄村内で死者は出ず、建物への被害もあまり大きくはありませんでしたが、この豪雪が鉄道の運行に影響を及ぼしました。

小浜鉄道
小浜鉄道

豪雪でヤバいです。列車の運行にも影響が出ています。

利用者
利用者

なぜな名田庄から小浜まで1時間近くかかるんや!

小浜鉄道
小浜鉄道

豪雪で大変な状況なのです。通常通り運行すると危険です。

利用者
利用者

こんなんならバスを使ったるわ!

小浜鉄道
小浜鉄道

それはどうかやめてもらって・・・

この豪雪で、さらに一層利用者離れが進んでいきました。また、線路の保線状況も悪く、このままでは事故も起こりかねない、というまさに危機的状態でした。

さよなら、小浜鉄道

 1981年12月、小浜鉄道の存続についての評議会が、小浜商工会議所にて催され、小浜鉄道・洛嶺電鉄・小浜市・名田庄村の代表者が参加しました。以下に、各サイドからの意見を記載します。

  • Tab1:小浜市長 浦谷音次郎氏
  • Tab2:名田庄村長(氏名不明)
  • Tab3:小浜鉄道社長 黒瀬俣則
  • Tab4:洛嶺電鉄社長 堀川雅之
  • Tab 1
  • Tab 2
  • Tab 3
  • Tab 4

小浜市長:浦谷音次郎氏はこう述べた。

「小浜鉄道は、小浜市内において貴重な交通手段であり、これまでも市の発展を担ってきた。そんな小浜鉄道が廃止されるとなると、市の利便性が低下し、冬場は交通が麻痺するおそれがある。そのため、私達小浜市は、小浜鉄道に対して恒久的な支援を行い、小浜鉄道が今後も存続することを切に願う。」

名田庄村長はこう述べた。

「小浜鉄道は、名田庄の発展を支え続けた。しかし、現在の状況はどうか。路線の状況はたいへん悪く、冬場に限らず列車は大抵遅延する。このような鉄道に支援を行っても意味はない。」

小浜鉄道社長・黒瀬俣則氏はこう述べた。

「小浜鉄道に移管されてから5年以上が経過したが、この経営移管は、ただ洛嶺電鉄から責任を押し付けられただけでたり、効果は殆ど無かった。小浜市・名田庄村・洛嶺電鉄の支援のどれかが欠ければ、今後の存続は一層難しくなる。」

洛嶺電鉄社長(当時)・堀川雅之氏はこう述べた。

「現在、福井・丹波エリアの路線の経営状況がみるみる悪化している。私達は、こちらの路線の利用者増に取り組むのが第一である。そのた、小浜鉄道への支援を打ち切りたい。」

この評議会では決着がつかず、翌年2月の第二回の評議会にて、ようやく「小浜鉄道は全然廃線とし、洛嶺電鉄の子会社、洛嶺バスが代替のバスを運行する」という方向に決着しました。そして、その廃線日は1984年4月1日、最終運行日はその前日となりました。この廃線の表明は1982年5月に行われましたが、一部の沿線住民は反対するどころか、「バス転換となることで本数が増えて、利便性が高くなり嬉しい」と喜んでいたそうです。

小浜鉄道最後の日

 時は流れ、1984年3月31日。一部の沿線住民が廃線を喜んだようなこの小浜鉄道でも、さよなら運転には多くの旅客が乗車しました。ここでは、ある方が名田庄線の最終列車に乗車した際残したレポートを要約の上ご紹介します。

誰かさん<br>(杉山英澪の祖母の猫)
誰かさん
(杉山英澪の祖母の猫)

名田庄下町駅のきっぷ売り場は、今までにないような混雑を呈していた。廃線となるその日に利用者がとても増えるのか・・・とても虚しい。

この下町の駅を出るころには、既に多くの旅客が乗っていて、身動きがやや取りづらい状態であった。もう発車することはないこの下町の駅を、列車はゆっくり、しかし力強く出発していった。そうして、小倉・久坂と停車していく。エンジンの音はいつものごとく単調ながら、長く駆けてきた線路との別れを告げているような気もした。

久坂を出た時点で、車内は立客で埋め尽くされていた。保線状況が悪かったため、列車がカーブしたり、レールの継ぎ目を通過したりするたびに、車内がかなり揺れ、立っていた客もそれに合わせて揺れた。この揺れを共有している私も、小浜鉄道の一部であったのかもしれないと考えると、とても感慨深い。

そこからも川に沿って走る。ところで、川の対岸に集落があった。その集落の住人だろうか、彼らが「ありがとう名田庄線」という旗を持ち、乗客である私達に手を降っていた。その住人たちを横目に列車は川の下流へと向かっていく。

少しずつ開けてくると、まもなく列車は小浜の中心市街地へと突入していく。そして、左へ急カーブし、長く一緒に走ってきた南川と別れを告げる。川を渡り、湯岡に停車すると、列車は最後の途中駅、小浜駅前駅に到着する。この小浜駅前からもいくらかの乗車があり、車内はまるで朝の大都会のような様子であった。最後に、小浜線を跨ぎ、小浜の町をゆっくりと駆ける。最後に急カーブし、電鉄小浜駅に着く。ドアが開くと、既に到着していた小浜本線の最終列車の乗客らなどが拍手をし、最後の列車の運転士に花束を渡した。そのとき、私の目から一筋の涙が溢れた。ありがとう、小浜鉄道。さようなら、小浜鉄道。またいつか、小浜鉄道。

こうして、1984年4月1日、小浜鉄道は全線が廃止となりました。会社も1988年5月に精算を結了させ、完全に消滅しました。

まとめ

全2回に渡り、この洛嶺小浜線系統・小浜鉄道について解説してきました。個人的にはこの小浜線系統は夢とロマンしかないような路線だな、と思いました。まあ、架空鉄道は夢とロマンが無ければ成り立ち難いですがね(笑)。それでは、次回以降は洛嶺電鉄・奥丹電鉄の歴史について解説していきます。ご期待下さい。

To be continued…

この記事を書いた人

杉山英澪
杉山英澪
明石生まれ・奈良育ち・守山住みの学生架空鉄。東海エリアや架空鉄関連の記事を中心に書いています。心の中はいつも東海市。全力で知多娘を推しています。

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