
こんばんは、かさつです。
今回は、南海電鉄の吸収合併されて約一ヶ月が経過した、南海泉北線についてです。
実は、今年の4/1に行われた吸収合併は、南海電鉄側からすると、悲願の合併とも言われているのですが、それがなぜなのかについて書きたいと思います。
よろしくお願いします!
泉北線の略歴

まずは、泉北線の歴史について軽く振り返りたいと思います。
泉北線は、1971年4月1日に中百舌鳥駅〜泉ヶ丘駅間が開業し、スタートしました。
その後1973年12月7日には、泉ヶ丘駅〜栂・美木多駅間が、1977年8月20日には、栂・美木多駅〜光明池駅間がそれぞれ開業。
そして、1995年4月1日に、最後の区間、光明池駅〜和泉中央駅間が開業し、現在に至ります。
2014年には、南海電鉄が、当時の泉北線の運営会社、大阪府都市開発株式会社の株をほぼ全て取得し、泉北高速鉄道に社名を変え、南海電鉄の子会社となりました。(ちなみに、この株式取得については、かなり色々あったので、またいつか、記事としてまとめます。)
そして、2025年4月1日、南海電鉄の吸収合併され、会社としての泉北高速鉄道は消滅しました。
泉北高速鉄道の吸収合併が南海電鉄の悲願と言われている理由

では、本題へと行きましょう。
なぜ、泉北高速鉄道の吸収合併は、南海電鉄にとって悲願だったと言われているのか。
それは…
南海電鉄が開業させたかったものの、建設、運営を断念した路線だから
です
南海電鉄は、元々、泉北線を自社で建設、運営する計画でした。
しかし、泉北ニュータウンの開発が始まった頃の南海電鉄の経営状況は新線を建設する余裕はありませんでした。
なぜかというと、1960年代後半に、重大事故が多発し、重い負債を背負っている状態だったためです。
(この時に起きた重大事故をまとめて南海3大重大事故と呼ばれることもあります)
このような状況のため、南海電鉄は新線建設、運営を断念。元々、トラックターミナルを経営するために生まれた第三セクター、大阪府都市開発株式会社が運営することになりました。
ですが、乗務員の都合などから、初期は南海電鉄に運営を委託していました。
その後、1986年に鉄道事業法が公布され、このまま、南海電鉄に運営を委託する状態だと、運賃や運行計画の策定ができない、第3種鉄道事業者となってしまうため、自社で運行を行う、第1種鉄道事業者へ1988年に転換しました。
まとめ

今回は、泉北高速鉄道の吸収合併が、南海電鉄側からすると、悲願だったわけについて書きました。
次回は、泉北高速鉄道の株式取得に関するいざこざや、延伸計画について書きたいと思いますが、時期は未定です…
では、次回もよろしくお願いします。
参考文献
流れの創造 : 大阪府都市開発30年のあゆみ:大阪府都市開発
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