【架空鉄道】播阪電車の設定を大放出!

あけましておめでとうございます。杉山英澪です。さて、今回の記事では、私が現在制作中の架空鉄道、播阪電気鉄道の現時点での設定を、一挙に放出していきます。

非架空鉄
非架空鉄

架空鉄道?そんなん良く分からないわ

という方もご安心下さい。成る可く楽しんでいただけるよう努力しますので()

スポンサーリンク

播阪電気鉄道とは?

播阪電気鉄道は、大阪府の湊町を起点に、宝塚、三田といった北摂地域の主要都市を結び、そこから加東、加西、福崎といった北播の主要都市を経由し、宍粟まで至る「播州本線」を基幹に、大阪エリアで7路線を営む他、津山市内において津山軌道線を運営しており、その路線網は中国地方へも広がります。また、宍粟山崎から佐用を経由し、津山大手町まで至る「播美急行鉄道」も播阪傘下にあり、同線と直通することで、大阪から津山まで速く移動出来ます。

スポンサーリンク

播阪の路線一覧

  • 播州本線 (大阪湊町〜宍粟山崎)
  • 梅田線  (北春日出〜梅田)
  • 淡河線  (六甲台〜三木本町)
  • 西脇線  (下久米〜中央西脇)
  • 姫路線  (播電高岡〜播電姫路)
  • 夢前線  (夢前〜播電姫路)
  • 東条湖線 (東条天神〜東条湖畔)
  • 津山軌道線(津山駅前〜一宮、津山駅前〜院庄館横、市役所前〜北志戸部)

また、以下の路線は廃止となりました。

  • 今田線(三草〜今田:1944年廃止)
  • 安富線(本竜野〜安富:1984年廃止)

播阪の車両

こちらは8000系で、1997年から2005年にかけて増備された車になります。播阪電鉄では初めてIGBT-VVVFインバータ制御装置を採用した車両となります。この車両は、1950年代末期に製造された、初期の高性能車両を淘汰するために投入されました。

なお、このデザイン、何度も使い回していて、昔作っていた架空鉄道にも同じデザインの車両が存在します。架空鉄道作者の風上にも置けませんねm(_ _;)m

なお、この8000型以外の車両の設定はまだ存在しません。何て酷いんだ。

播阪の歴史

空想文章というサイトにて筆を執っている「播阪・洛海ヒストリー」の文をそのまま引っ張ってきました。

※ここからとんでもなく長い文が連なるのでご注意下さい。また、常体での記述となります。

阪播電気鉄道の計画

宝塚に初めて鉄道が通ったのは、1897年、阪鶴鉄道の開業時である。同鉄道は、もともと摂津地域の東部を走っていた「摂津鉄道」を吸収し、福知山方面への延伸を目論んでいた。まさに、今の福知山線(JR宝塚線)である。その後、1899年の1月には三田、3月には篠山、5月には柏原まで延伸し、着実に丹波地域まで路線を伸ばしていった。 一方、播磨地域にも、鉄道は着々と整備されていった。播磨地域初の鉄道は、1888年開業の山陽鉄道である。山陽鉄道は、その名の通り、どんどんと西へ西へ延伸を重ね、1901年には馬関(現在の下関)まで到達している。これは、今の山陽本線にあたる。また、1894年には播但鉄道の姫路〜寺前間が開通し、翌年には生野まで開通した。これは、今の播但線だ。このように、兵庫県に於いては、1890年代から着々と鉄道の整備が進みつつあった。とりわけ、南部の播磨地域は先進的であった。 しかしながら、播磨地域の中でも、鉄道の敷設が相次いだのは南部の方であり、西脇や社、東条などの所謂「北播地域」では、鉄道の整備がほとんど進んでいなかった。また、そもそも兵庫県内を東西に結ぶ路線が少なかった。兵庫を東西に貫く鉄道は、当時は山陽本線しかなく、バイパスの整備が求められていた。だが、その整備は需要が見込められなかったことから、結局計画がされることはなかった。 時は流れ、第一次世界大戦後になる。同大戦の後、日本国内では公共事業の企画ブームが巻き起った。これの一分野として、鉄道の敷設が挙げられた。この頃計画されたのが、阪播電気鉄道である。これは、大阪の野田から、伊丹、宝塚、山口、淡河を経由し、三木までいたる鉄道である。これは、現在の播州本線、淡河線にあたる。だが、この頃の計画にはかなり無理のあるものが多かった。また、宝丹鉄道など、伊丹・宝塚地区で競合するような計画が出されていた。そのため、この計画は破綻し、阪播電気鉄道は解散した。その後を継ぐような路線が、少しずつ開業していく。

北播鉄道の開業

播磨地域南部において鉄道が次々に開通していくなか、北播地域に鉄道を通そうという動きが生まれた。特にこの運動は三田・西脇・北条で盛んとなった。これら3地域の住民は、それぞれを相互に結ぶ鉄道を敷設することで、さらに地域が発展すると考えた。この鉄道は「北播鉄道」として、1903年4月、創立総会を開催した。北播鉄道が免許を出願した区間は、三田駅〜東条〜西脇市であった。この北播電気鉄道は、1905年2月に鉄道免許を取得し、早速建設を開始した。そうして、1908年2月15日、北播鉄道の三田〜中央西脇間が開業した。今の播州本線・西脇線の一部である。当時は福知山線(旧阪鶴鉄道)と直通運転を行い、大阪方面へ北播鉄道の車両が直通していた。 この北播鉄道は、沿線人口がかなり少なく、利用が少ないことが予想された。そこで、当時の社長、深城仙一ふかぎせんいちは、沿線密着型の鉄道にすることにした。その例として、定期的な無料乗車券の配布が挙げられる。これは、とても極端ではあるが、鉄道自体の利用を促進し、利用客を獲得することに間接的に影響した。また、粗品の配布やパンフレット「上昇気流たる列車」の制作など、地元に溶け込めるように努力した。そのため、徐々に利用が増えていき、経営も安定するようになったそうだ。  北播鉄道は、次いで北条〜福崎間の免許を出願し、1913年4月に無事取得した。その区間の建設も比較的スムーズに進み、1915年7月25日、北条〜福崎間が開業した。こうして、現在の播阪電気鉄道につながる路線が着々と開通していった。

北播都市開発の宅地開発

北播鉄道の福崎延伸の3年前である1910年は、日本の鉄道業界に於いて革命が起った年でもあった。箕面有馬電気軌道の開業である。同鉄道は、都市同士を結ぶのではなく、都市と郊外を結んでいたが、郊外の開発を進めることで、利用客の獲得に成功したのだ。このスタイルは、同業他社も追従し、以降日本の鉄道ビジネスの基本形となっていく。 深城仙一は、勿論この波に乗っかっていった。仙一は、限りなく広がる播磨の田園地帯を、住宅地に変えて、利用を促進させようと考えたのだ。そうして、1915年4月、子会社である北播都市開発を設立し、第一期事業として東条地区の開発をスタートさせた。この開発によって誕生したマチは「播磨緑地都市」と呼ばれた。この播磨緑地都市の特徴は、大きく2つある。まず、緑を多く残したことである。播磨地域の美しい自然を活かして開発し、それを売りにしていたのだ。そしてもう一つがあえて少し不便にさせた点である。播磨緑地都市内に、八百屋や精肉店などは設けたが、買い出しに行くには不便な状態にしていたのだ。あえてこうすることで、鉄道の利用を促進しようとした。 この第一期の開発は成功し(厳密には予想よりも入居者数は減っていたが成功と言えば成功だろう)、第二期の開発として、福崎地区の住宅地化が進められた。1920年からのことである。これによって出来た市街地を、「西播磨緑地都市」と呼ぶ。この西播磨緑地都市においても、前述のようなスタイルを採用し、鉄道利用を促進させた。こうして、第三期の開発もスタートした。第三期開発の地に選ばれたのは、まだ鉄道の通っていなかった淡河村であった。この開発を「淡河緑地都市」この第三期開発と第一期・第二期の開発で大きく異なる点は、もともと鉄道が存在するか否かである。第三期開発に於いては、未開の地に鉄道を通し、未開の地を宅地開発していくという手法が取られた。さらに、北播鉄道は、宝塚延伸を目論んでいた。宝塚まで伸ばせば、阪神急行電鉄線と接続し、一層アクセスが良くなるためであった。 こうして、まずは1923年11月、三田〜宝塚間の免許を取得し、1925年9月、北播鉄道の三田〜宝塚間が開業。国鉄福知山線とは異なり、山口地区から一気に山を下るような区間となり、福知山線よりも速達性を意識したような格好となった。これにより、大阪へのアクセスが抜群となった。さらに、1925年9月、淡河緑地都市の街開きが行われ、同時に北播鉄道の三田〜淡河間が開業した。北播鉄道が自ら計画し、自ら開業させた初の支線であった。この区間は、阪播電鉄が計画していたが未成に終わった区間であり、結果として阪播電気鉄道の計画は実を結んだと言える。 こうして、大阪へのアクセスの良さを売りに、着実に利用客を増やしていった北播鉄道であったが、流石に世界恐慌に勝ることはなかった。1930年から計画されていた第四期開発は勿論中断した。

播磨の鉄道王になりけり

北播鉄道が開業したころ、姫路から、社を経由して、丹波篠山まで至る鉄道の計画がたてられた。この鉄道計画に深く関わったのが、小場健一郎である。彼は、現在の篠山市で生産が盛んな「丹波立杭焼」の魅力に目をつけており、それの輸送を円滑に行おうとしたのだ。今の時代からすれば、社まで開業させ、そこから加古川線に乗り切ればよいのではと考えることが出来るが、当時、現在の加古川線は開業しておらず、山陽本線の駅まで接続する必要があった。そこで彼は、姫路から社を経由し、今田までを開業させようとしたのであった。 この計画が動き出したのは、1911年頃であった。そうして、小場は、1911年2月、姫路〜社〜今田間の免許を取得、「播丹鉄道」を設立した。これは、後に加古川線の運営会社となったものとは異なる。この計画に目をつけたのが、北播鉄道であった。北播鉄道は、1911年ごろより交渉を重ね、3年後の1914年11月25日、北播鉄道と播丹鉄道は合併することが決まった。そうして、播丹鉄道は1915年1月1日に北播鉄道に吸収され、1915年2月、経由地を社から高岡に変更する旨を申請し、通った後、工事はスタートした。1917年に、姫路〜高岡間、社〜今田間が開業した。 時を同じくして、姫路と山崎を、夢前経由で結ぶ鉄道路線の計画が立てられた。西播電鉄である。同鉄道は、1914年9月に免許を取得し、路線の工事に取り掛かったものの、資金難に陥り、1916年に工事は中断した。これを好機と捉えたのが北播鉄道であった。北播鉄道は、1917年2月1日、西播電鉄を吸収した。これに合わせて、北播鉄道は福崎〜夢前間の免許を1917年11月に申請、翌月に取得した。こうして、1920年4月、本線として福崎〜山崎(現・宍粟山崎)間、夢前線として夢前〜姫路間が開業した。また、北播鉄道はこの少し前である1915年3月より、蒸気動車での運行を行っていたが、勾配の多い当鉄道には不向きであったことから電化工事が進められ、1924年8月に完成した。こうして、北播鉄道は徐々に播磨地域における地位を高めていった。利用客数も姫路延伸で着々と増えていき、経営が安定していった。 1925年末には、下久米〜西脇中央間の免許を取得し、翌年9月に当初から電化で開業した初の路線である西脇線が開通し、加古川沿いの旅客需要も着々と拾っていった。このとき、今田線の社〜間は廃止されている。特に、社・西脇に於いては、両地区の中心部を北播鉄道が走っており、加古川線の前身・播丹鉄道からの旅客を奪った。こうして、北播鉄道は「播磨の鉄道王」と呼ばれるようになった。

尼宝電鉄の合併、大阪進出

 1922年10月、前田房之助を中心に、宝塚尼崎電気鉄道(尼宝電鉄)の計画が誕生した。同鉄道は、阪神出屋敷駅から、武庫川の東岸を走り、宝塚(小浜)まで至る路線を計画し、翌年7月には免許を取得した。これら一連の動きに大いに注目した会社が2つあった。阪神電気鉄道と北播鉄道であった。阪神電気鉄道は、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が神戸まで延伸したことを受け、同社の聖地ともいえる宝塚への進出を目論んだ。一方、北播鉄道は、大阪へ進出し、都市間鉄道として脱皮することを目論んだ。これら2社の対立に尼宝電鉄は大きく揺れ動いた。 北播鉄道は7月27日、阪神電気鉄道は7月31日に尼宝電鉄への出資を決め、主導権の奪い合いが勃発した。この争いは、北播鉄道の当時の社長・三河紀行の高圧的な態度に、阪神の社長・三崎省三が折れたことで決着がつき、尼宝電鉄は北播鉄道の子会社になることとなった。そうして、1924年2月6日、設立総会が実施され、前田房之助が社長、三河紀行が相談役に就任した。その半年後には、尼宝電鉄は北播鉄道へ吸収された。 北播鉄道は、尼宝電鉄の有していた免許を引き継いだとともに、尼崎〜大阪湊町間の免許を取得した。なぜ梅田に進出しようしなかったかは謎に包まれているが、一説によれば、阪急、阪神との過度な競合を防ぐためであるという。この区間の免許は、1924年12月に取得した。こうして、大阪へ進出の基盤が整った。 そこからの動きは早かった。1926年1月には、宝塚〜阪神尼崎間、同年9月には阪神尼崎〜大阪湊町間が開業した。ついに、北播鉄道は大阪進出を果たしたのだった。このタイミングで、社名を現在の「播阪電気鉄道」に変更した。

多角経営へ

大阪電気軌道が、上本町駅に誘致させた三笠屋百貨店、阪神急行電鉄が開業させた阪急百貨店など、1930年代からはターミナル駅には百貨店を開業させるのが主流となりつつあった。この動きに播阪は便乗しようとし、1932年、大阪湊町駅に駅ビルを建設し、「播磨マーケット」と呼ばれる直営の売店を開設した。これは、阪神急行電鉄の「阪急マーケット」に倣った形となる。この「播磨マーケット」は見事一定数の客層を獲得することに成功した。そのため、「播阪百貨店」への改装が1934年5月末に決定し、1934年11月30日、播磨マーケットは閉鎖された。そこから、およそ2年の時を経て、1936年9月1日、播阪百貨店の湊町本店が開業した。 この開業は、ターミナルデパートの中では比較的早いものであったが、湊町・難波地区においては、既に先駆者として南海難波の高島屋が存在しており、競合が危惧された。そこで、当時の播阪の社長、込土井勝は、「百貨店からデパートへの脱却へ」をモットーに、播阪百貨店の洋風化を推し進めた。その最たる例が、1936年12月の「屋上レストラン」の開業だろう。これは、その名の通り屋上にあるレストランである。この屋上レストランは、当時の大阪の市街地を眺められるような立地であり、一定の人気を集めた。このような洋風化の取り組みのため、この百貨店を訪れる客は比較的若年層が多くなっていったという。このようにして、難波高島屋、および大軌百貨店(上本町駅併設で、比較的近くにあった)との差別化を図り、それらとは異なる客層を獲得し、存続を可能としたのである。 この播阪百貨店の本店の成功を受けて、1937年2月には、姫路に出張売店として所謂「姫路播阪」が、播阪姫路駅のすぐ前のビルに開業した。こちらもある程度は成功したが、テナントの満了期間が迫り、1940年に閉店している。

戦時下の播阪

1941年に勃発した太平洋戦争は、日本の経済活動に大きな影響を及ぼした。まず、運行本数を限界まで削減し、沿線の遊休地を生かして、野菜などの栽培を行った。運行本数を削減することによって余剰となった人材を栽培にあてたため、土地も人材も有効活用が出来、会社側からも社員側からも良い事業となった。この栽培は、戦後の食糧事情が好転するまで続けられ、その間の運行本数は少なかったという。 続いて、今田線、淡河線の2路線が、1943年10月1日に不要不急線に指定され、休止となった。この2路線の沿線人口はかなり少なく、需要も少ないと判断されたためである。今田線は線路設備が完全に撤去され、復活が難しい状態にあったものの、淡河線は、軍港・舞鶴と大阪を福知山経由で結ぶ福知山線、およびそのバイパスの播阪線が空襲にあった際の復旧用資材として休止以後も設備が残置された。これが、戦後の命運を分ける。 さらに、1944年には、本竜野から安富を結んでいた「安富鉄道」を吸収した。兵庫県は、陸上交通事業調整法の対象地域外であったが、自主合併という形でこの併合が行われた。しかし、大阪府内が陸上交通事業調整法の対象地域となったものの、播阪は独立を貫き、安富鉄道以外の他社の併合も行わなかった。播阪電気鉄道は、戦時下でも路線網は他社と比べればあまり変わらずにあり続けた。


ここまでが、現時点で完成している歴史です。クソ長い割には要旨が掴めない、酷い歴史だったかもしれません。

スポンサーリンク

播阪のダイヤグラム

絶賛制作中です。完成は2027年頃を予定しております。来年度は受験生になるのが、これほどまでに遅くなると考えられる最大の理由です。

播阪電鉄
播阪電鉄

早くダイヤという命を吹き込んでくれよ!

杉山英澪
杉山英澪

時間無いし、来年度は受験生になるんだよ!

まとめ

播阪電鉄について記述してきました。ここまでの内容を振り返りましょう。

  • 播阪電鉄は、大阪・兵庫・岡山に路線を広げている大手私鉄
  • 播阪電鉄は、初めは一地方私鉄として開業した
  • 播阪電鉄のダイヤは、絶賛制作中である

この記事は、以上となります。ご拝読有難う御座いました!そして、本年も宜しくお願い致します!

この記事を書いた人

杉山英澪
杉山英澪
兵庫に生まれ、奈良で育ち、名古屋に住む架空鉄。
現在、「播阪電気鉄道」「洛海電気鉄道」を制作中。
・・・きのこ、キノコ、木の子、ピノコ!

コメント  ご意見やご感想等お気軽にどうぞ。

タイトルとURLをコピーしました