石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」の始まりのフレーズ〝上野発の夜行列車おりたときから 青森駅は雪の中〟は非常に有名で、青森駅のモニュメントでも流れるほどの名曲となっています。
しかし、この歌詞にあるような「夜行列車」は現在、上野駅では見ることができません。上野駅を発車する夜行列車は2016年に「寝台特急カシオペア号」運行終了をもって定期列車としては姿を消してしまいました。ただ、このカシオペア号自体、札幌行と上野行それぞれ隔日での運行を行っており、「定期列車」といえるかはやや微妙なところで、毎日運転される上野発の夜行列車、という意味では「寝台特急北斗星号」が最後となりました。
サンライズ号を除く寝台列車が全廃してまもなく10年が経とうとしていますが、そんな今「夜行列車」の需要が高まってきているようです。今回は前編と後編に分けてこのブーム再燃の背景や今後について探っていきます。
夜行列車の現況
現在、定期列車として運行される夜行列車は「寝台特急サンライズ出雲/瀬戸号」のみとなっています。新幹線空白地帯である山陰地方や四国地方を結んでいることから、安定した需要が依然として高く廃止を免れているものと考えられます。逆にいえば、これ以外の夜行列車は全て廃止となってしまったのです。
2016年の廃止当時、車齢がまだ浅かった寝台特急カシオペア号用のE26系客車は現在まで、団体臨時列車の「カシオペア紀行」に使われ、一週間に一度ほどの頻度で上野駅から運行されています。また、JR西日本では同じく臨時列車ではありますが、「WEST EXPRESS銀河」として117系の改造車が運転されています。
また、寝台電車の583系はJR西日本では定期列車「寝台急行きたぐに号」として運転されていましたが、2013年に完全に運行が終了、唯一残っていた秋田のN1N2編成も2017年をもって運行を終了しています。
夜行列車の需要
なぜ夜行列車は数を減らしたのか
現在まで姿を残すサンライズ号を除いて、なぜ夜行列車は廃止に追い込まれていったのでしょうか。夜行列車が廃止となった理由には大きく3つの要因が隠れていました。「晩年」に廃止された夜行列車を例にとりながら、その理由を探っていきましょう。
背景① 車両老朽化
2011年に運行を終了した「寝台特急日本海」や2014年に運行を終了した「寝台特急あけぼの」が廃止された背景にあったのは車両老朽化でした。先ほどもこちらは触れていますが、運転されていた多くの車両が国鉄時代に製造されたものでした。晩年期に運転されていた24系(25形)や583系は形式のなかでは後期に製造されたものではありましたが、それでも1970年代後半に製造されたもので、老朽化は乗客の目にもわかるほどに進んでいました。
更に、時代に追い付いていないように思えるところも晩年期には多くなっており、583系などでは最後まで3段寝台を備えた車両でその狭さや寝心地の悪さは583系の代名詞ともいえる特徴であり、ある意味での魅力でもありました。
背景② 乗客減少
「夜行列車は時代遅れ」このように言われる理由は、晩年の夜行列車の多くが「乗客減少」を理由に廃止されてきたからです。車両老朽化と乗客減少は必ずといっていいほどセットに挙げられる廃止理由です。
こちらは2013年12月に公式発表されたあけぼの号廃止についてのプレスです。あくまで定期列車としての運転取りやめではありますが、それまで毎日運転されていたあけぼの号の廃止のお知らせが、たった2行の発表にとどまっているところに寂しさを覚えます。実は、あけぼの号の廃止については単なる「乗客減少」では片付けられない事情があったのですが、こちらについては後述とします。
晩年期には新幹線の延伸開業や新規開業によって、旅行における「移動時間の短縮」がブームになりつつありました。今までは何時間もかかっていた移動が新幹線によって楽々、短時間で済ませられるようになったために夜行列車の需要が下がっていきました。かつては夜行列車、列車のなかで夜を明かすということ自体が不思議なことではなかったのですが、時代が進むにつれて「夜行列車」自体が日常から存在が離れていったことも背景にあるのでしょう。
背景③ 新幹線開業による影響
青函経由の夜行列車は、晩年期のなかでも最後まで運転が続けられました。これは当時、北海道新幹線が未開業であったためです。加えて、上野ー札幌間の二大列車「北斗星」「カシオペア」は最後まで人気の高い列車であり、特にカシオペアはJR東日本のフラッグシップとなる列車でした。さらに、青函連絡の役割を担う「急行はまなす」は、晩年期のなかでも最後まで運転が続けられました。これは当時、北海道新幹線が未開業であったためです。
さらに、青函連絡の役割を担う「急行はまなす」は東京からの東北新幹線と接続を取る列車で、20時に東京を出ても朝には札幌に着くという点で利便性の高い列車でした。この急行はまなすは新幹線と共存する夜行列車であり、青函トンネルを通る夜行列車としては最後まで残り続けた列車です。
上野発の列車という点では逸してしまいますが、晩年期にはカシオペア号や北斗星号と同様に個室を備えた「トワイライトエクスプレス号」のほか、名実ともに日本海側の地域の夜行列車だった「日本海号」が運転されていました。このうち、日本海号は北海道新幹線開業よりも前に廃止となってしまいましたが、大阪ー東北の貴重な夜行列車として活躍を続けていました。
「北斗星」「カシオペア」「はまなす」の3列車が廃止に追い込まれた理由はたった一つ、「北海道新幹線開業」に他なりません。言い方を換えれば「惜しまれつつも走ることが出来なくなった」というほうが適切かもしれません。
北海道新幹線開業前は青函トンネルは在来線専用隧道でした。そのため、交流20,000Vで電化されておりED79などの交流用機関車が走行でき、さらには485系などの旅客電車もが青函トンネルを往復していました。
ところが、北海道新幹線を開業させるにあたりトンネル区間を新幹線が走行することになり、電圧は在来線の交流20,000Vよりも5,000V高い25,000Vに昇圧され、ED79形電気機関車や485系などの通常の交流用車両は入線できなくなってしまったのです。この状態では旅客電車はおろか、貨物列車でさえ入線できません。そこで、JR貨物は複電圧対応できる交ー交流電気機関車EH800形を開発し、青函トンネルでも走行できるようになったのです。
その一方で青函の電気機関車ED79を失った3つの寝台列車は青函トンネルをくぐることが出来なくなってしまいました。JR貨物のEH800形を借用して運行を継続することも技術的には不可能ではなく、実際に廃止後のカシオペアクルーズやカシオペア紀行はEH800形が牽引したこともあります。しかしながら、EH800形は複電圧式交流機関車という非常に高度な技術開発を要しており、北海道新幹線の開業関連であることからその開発製造には「新幹線予算」が使われています。この新幹線予算には国の公共事業関係費も含まれています。貨物列車牽引用として製造されたEH800形を旅客列車の牽引に常態的に使用することは「目的外使用」となってしまうため、結果的にE26系を牽引することはできないのです。国の予算を使って製造した機関車ゆえの弊害といったところでしょうか。
583系に学ぶ「寝台列車需要」
最後は臨時運転ながらも、2017年まで運行を続けた583系。国鉄期に設計開発された寝台電車583系は、座席と寝台が切り替えられる世界的にも珍しい「座席/寝台可変電車」として有名でした。このような仕様で設計された背景には夜行列車特有の課題を打破する目的がありました。
夜行列車用の車両が活躍するのは夜~朝にかけての時間帯です。ベッドを備えた車両が日中の特急として運転することは当然できません。そのため、日中の車両基地には非常に多くの寝台車を留置することとなり、これがあまりにも非効率的で車両基地の運用にも支障を来していました。経営が苦しい国鉄が生み出した解決策は、「1つの車両で昼と夜の2役をこなせる車両を開発すること」でした。普通の特急車両の網棚をおろせば2段ベッドが下りてくる、座席だった空間もベッドとして切り替えて3段寝台に姿を変える、これこそが583系が誕生した経緯です。
結果からいえば、583系は「失敗作」だったのかもしれません。開発してまもなく新幹線が開業したことで、そもそも夜行列車自体が数を減らし、583系の本領を発揮する機会はあまりなかったのです。余剰となった583系は国鉄の得意芸ともいえる魔改造によって、普通電車用として北陸地区や東北地区に投入されていきました。
しかし、ここで注目するべきは「583系のまま残り続けた車両」の活躍です。民営化後も583系は主に2拠点で活躍を続け、西日本では「急行きたぐに」、東日本では東北特急として運用されました。このうち西日本は2011年に運行終了となりましたが、東日本ではしばらく残り続けることになります。
JR東日本は583系を臨時列車としての使い勝手の良さに目を付け、比較的に車齢の浅い編成を改修、修繕し6両編成化して秋田車両センターに配属させました。この編成は以降、「N1N2編成」として呼称することにします。
70年代の設計は確かに2000年代に運行するには設備が時代遅れであることは否めませんでしたが、臨時列車として運転するぶんにはあまり問題はありません。N1N2編成は交直流電車であるがゆえ、電化路線なら幅広い範囲で運行できることが強みとなり、寝台機能を設けていることで多彩な臨時列車の設定を可能にしました。その集大成ともいえる列車が「わくわくドリーム号」です。
寝て、舞浜へ「わくわくドリーム号」
東京ディズニーリゾート®の最寄り「舞浜駅」へ行く臨時列車は通年需要があります。関東圏から舞浜駅までのアクセスはそこまで不便ではありませんが、東北地方に住む人々にとっては舞浜駅は非常に遠い存在でした。特に北東北エリアからは移動にも時間がかかり、週末を利用しても思う存分パークを楽しむことは難しかったのです。
そんなアクセス難に終止符を打ったのがこの583系で運転される「わくわくドリーム号」でした。わくわくドリーム号は、金曜日の夕方に青森を出発し、新幹線のない夜間に在来線を走り続け、早朝に舞浜駅に到着。開園から閉園までパークを楽しんだのち、土曜日の深夜に舞浜を出発、日曜日の昼頃に東北の各駅へ着く臨時列車でした。寝台電車ならではの強みを生かした列車で、ディズニーリゾートの入園券付で旅行商品として発売されていました。車中泊2泊とディズニーチケット付、浦安地区のホテルでの朝食付きで大人30,200円とかなり破格の料金設定でした。
こちらは、2016年に実際に運行された「わくわくドリーム号」の時刻表をもとに作成しています。東北からの来園でも、安心して開園から閉園まで存分に楽しめる行程は、寝台電車のおかげでしょう。
「びゅう」の旅行商品として運転された「わくわくドリーム号」は「団体専用臨時列車(三段式寝台)で舞浜駅まで直通運転!」という謳い文句付きでした。これも583系なければ実現できなかった訳ですから、いかに583系が臨時列車として使い勝手が良かったかが分かります。わくわくドリーム号は完売となることもあり、臨時列車ではありながらも高い需要があったことが分かります。
なお、わくわくドリーム号は首都圏を583系が走行するため、鉄道ファンからも極めて高い人気を誇り、京葉線や武蔵野線沿線では多くの鉄道ファンが見送る光景が度々見られたほか、晩年の利用者は鉄道ファンが多い状況でもありました。
あけぼの号の廃止
前編の最後に、「あけぼの号」の廃止について探っていきましょう。
JR東日本の発表では「ご利用の減少」と「車両の老朽化」を理由に廃止について説明しています。しかしこれには少しばかり疑問が残ります。老朽化を理由としている一方で、臨時列車としての運行については可能性を示唆している点など、あけぼの号の廃止についてはやや理由が不明瞭なのです。
また、発表にあった「ご利用の減少」とは裏腹に、あけぼの号は一定の需要があったと言われています。実際、それを裏付けるかのように、秋田県などがJR東日本に対して存続を強く求めるなど、廃止には反対の声も多かったのです。ちなみに、秋田県がここまで反対したのは、秋田県と東京を結ぶ定期特急はこの「あけぼの」が最後だったからとされています。個人的な話にはなりますが、私の友人一家は秋田県に実家があり、帰省する際には夕方まで東京にいて、寝ている間に秋田に向かえるという点で重宝していたそうです。秋田新幹線は秋田駅までしか行かないため、県北地域へはあけぼの号のほうが便利だったかもしれません。
あけぼの号は廃止時の他の寝台列車と異なり、他社に跨らない運行形態であり、JR東日本単独の寝台特急でした。そのため収益もそれなりに期待できそうな列車だったのですが、JR東日本は廃止に踏み切ったのです。
新幹線との競合区間以外の区間も多いあけぼの号が廃止となった最大の理由は、「ルート消滅」と言われています。あけぼの号は日本海回りで秋田、青森へと至る寝台列車でした。かつては奥羽本線経由のルートで運転されていましたが、山形新幹線開業に向けた改軌(狭軌→標準軌)のため、山形線区間の奥羽本線を経由できなくなりました。そのため、1990年から次の3ルートに変更となります。
- 高崎線→上越線→信越線→羽越線→奥羽線(上越線ルート)
- 東北線→陸羽東線→奥羽線(陸羽東線ルート)
- 東北線→仙山線→奥羽線(臨時便ルート)
この3ルートは便宜的に括弧内のルート名で呼称することとします。定期便の1往復が上越線ルート、もう1往復が陸羽東線ルートで運行されていました。また臨時で設定される列車については仙山線経由の臨時便ルートで運転していました。最終的に残ったルートは「鳥海」として運転されていた上越線ルートでした。
陸羽東線は非電化区間のため、ディーゼル機関車への付け替えが必要となります。仙山線ルートでは新庄附近が改軌されたため走行できません。そのため、上越線ルートが最終的には残されたルートとなったのですが、この上越線では貨物列車の運転が日中に集約され、他の寝台列車が廃止されたことで、上越線を夜間に走行する唯一の列車となっていました。この1本の「あけぼの号」が上越線の夜間保守点検の妨げとなってしまうのです。老朽化も進行した客車を新しくしてまで存続させる価値があるか否か──、JRの判断は「否」でした。
このときのリリースで臨時列車での運行継続を示唆したのは、臨時ならば夜間保守の調整が可能だからです。臨時列車としては2015年まで存続しましたが、北海道新幹線開業による青森運転所廃止も重なり、役目を終えました。
「それなりの需要」では採算が取れない。これこそ夜行列車の現実なのです。
前編のまとめ
「夜行列車の需要について考える~前編~」いかがでしたでしょうか。
前編では、夜行列車の衰退をテーマに「なぜ夜行列車が数を減らしたか」について掘り下げました。ひと昔前まで、「ブルートレイン」は日常的な存在でした。しかし今では「ブルートレイン」はもはや死語。夜行列車ですら若者は乗る機会のない存在の遠い列車となってしまいました。その背景には交通手段の変容や移動に時間をかけない「スピード重視」の価値観が広まったことが挙げられます。
夜行列車は「時代遅れ」───。夜行列車はいずれ姿を消す存在だろうと思われたのですが…実はそうでもないようです。その詳細は後編で詳しく解説します。
後編では「令和に蘇った夜行列車」「クルーズトレインとの棲み分け」をテーマに夜行列車の将来について考え、将来像を描いていきます。「上野発の夜行列車 おりた時から…」と再び冬景色を眺める日はやってくるのでしょうか。(文 とうほくらいん)
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