【注意】本記事で扱う路線名称は、特に注釈のない限り旅客案内上の名称です。正式な路線名とは異なる場合がございますのでご了承ください。
どうもどうも。来春の花粉飛散量が多いらしくて大泣きしています。花粉です。
こんな名前でも花粉症なんです!
どうでもいい事はさておき、読者の皆さんは総武快速線って知ってますか?総武線(快速)なんて表記をされたり横須賀線-総武線なんて表記をされたりもしてるんですけど、視覚的に訴えればこうです。
この車両、見たことある人は多いと思います。上から順にE235系1000番代、E217系です。
今回の記事ではこれらの車両が活躍する総武快速線について、徹底解説していこうと思います。どうぞよろしくお願いします。
※あくまで総武快速線の解説記事です。横須賀線方面は運行形態で少しだけ触れるけどそれ以外はノータッチです。
1.どこ走ってんの?
一般に総武快速線と呼ばれる区間は東京駅から錦糸町・市川・船橋・津田沼を経由して千葉に至る39.2kmの区間です。 関東地区で同じように快速線として認知されている中央線快速の53.1kmよりかなり短く、常磐快速線の上野〜取手間39.6kmよりもわずかに短い数値となっています。ただし、冒頭にあげた写真を見ていただければわかるように、快速電車は千葉から先の房総各線に直通しています。 今現在も直通が維持されている区間は、京葉工業地域を通る内房線の千葉〜君津間、遅い高い本数少ないで使い物にならない京成千原線のせいで鎌取地獄とさえ呼ばれる混雑の発生する外房線の千葉〜上総一ノ宮間、成田空港アクセスの一翼を担う成田線の千葉〜成田空港・香取間、総武快速線直通網最遠の鹿島線全区間、そして総武本線の千葉〜成東間です。
また、東京駅側では横須賀線と直通しており、品川・武蔵小杉・横浜・鎌倉を経由して三浦半島の久里浜駅まで直通運転を行なっています。そして、中央快速線、常磐快速線と同じように特急列車も走行しています。定期列車として走行するのは、成田線に直通する「成田エクスプレス」と、千葉から総武本線に直通して銚子まで走り、正式な総武本線(支線除く)を完走する「しおさい」、1日1往復だけ直通運転のある中央線特急「あずさ」の3種類です。細かい運行形態については後でお話ししますね。
2.歴史
さてここからは総武快速線の歴史を辿ってみましょう。主に快速線誕生までの歴史を扱い、運行形態の変遷については運行形態の項で扱うこととします。現在の総武本線(正式な方)で真っ先に開業したのは市川〜千葉〜佐倉間で、1894年7月に開業しました。同年中に錦糸町駅まで延伸開業を果たします。ちなみに今年で130周年です。当時は総武鉄道という私鉄でした。その後も国有化だとか銚子延伸だとかいろいろありますが、総武快速線という概念にはあんまり関係ないので高度経済成長期まで割愛します。
時は1960年代初頭、国鉄の利用者は頭を抱えていました。東京近郊での通勤需要の増大に伴い、圧倒的に輸送力が不足していたのです。この当時は総武線に快速電車は一応ありました(※1)が鈍足なものであり、現在の総武緩行線の運行形態(≒錦糸町から秋葉原、御茶ノ水方面に直通)での運行が行われていました。複線のみで通勤需要、房総各線から両国直通の普通/急行列車、貨物列車の全てを捌いており、両国直通の普通に至っては1969年までSL列車が残っていた始末で、速達化・増発・増結も限界となってしまった総武線、というか他の首都圏各線もこんな状況でした。(流石にSLはもう少し早期に消滅)
しかし国鉄は東海道新幹線や山陽新幹線、東北本線などの建設、輸送力増強に重点を置いており、通勤路線では小手先だけの政策がなされており、「痛勤地獄」とさえ呼ばれる混雑に陥っていました。1960年時点での総武線の混雑率は最大で312%。この時点で相当頭のおかしい混雑です。しかも何も対策をしなければ1972年には445%に達すると試算されていました。
お前は何を言っているんだ。
しかも当時の総武線は東京駅に乗り入れていません。ものすごい数の旅客が秋葉原駅で京浜東北・山手線に乗り換えていたことでしょうが、秋葉原駅の階段、ホームはお世辞にも広いとはいえません。このまま放置すれば危険です。また、成田国際空港の開港を控えており、成田新幹線を補完して、空港に到着した人々を東京都心まで輸送するルートとしても、今のままではいけないことは明白でした。
そこで1965年に国鉄はようやく重い腰を上げ、通勤五方面作戦に着手しました。この内容において、総武本線では錦糸町〜千葉間において、快速・特急列車と各駅停車をそれぞれ総武快速線と総武緩行線とに分離する複々線化を行い、同時に東京駅 – 錦糸町駅間に地下新線を建設して東京駅に乗り入れ、さらに横須賀線列車との相互直通運転の実施を行うことに定められました。そして1972年には津田沼までの複々線と東京駅への新線が開業。同時に総武本線(正式な方)の起点は御茶ノ水駅から東京駅に改められました。9年後の1981年にはようやく津田沼〜千葉駅間の複々線が開業してようやく複々線化が完了し、総武快速線は全通を果たしました。
※1:当時の快速電車は、緩行線と同様の101系電車を使用したもので、中野〜成田/木更津間で運行されていた。しかし、各駅停車と同じ線路を走っているため前の電車に詰まってしまい、お世辞にも速いとはいえなかったそう… そして詰まらないようにするために前の電車との間隔を空けて本数が減る…
3.運行形態
さて、ここからは総武快速線の運行形態について、できる限り時系列順に追っていきましょう。
3-1.部分開業
まずは部分開業時である1972年の運行形態を見ていきます。
前述の通り、当時は津田沼〜千葉駅間の快速線は未開業だったため、津田沼駅から先は各駅停車と同一の線路を走行していました。総武線内の停車駅は、現在の停車駅から稲毛を抜いたもの。当時は稲毛駅には停車していませんでした。そしてこの時点で少なくとも内房線、外房線と成田線への直通運転が開始されます。内房線は木更津•君津まで11往復、外房線•成田線は、それぞれ上総一ノ宮•大原•成田まで8往復が運行されるようになりました。
また、開業当初は東京トンネルが全通していなかったほか、横須賀線のSM分離(※)の準備ができていなかったこともあり、全ての電車が東京駅止まりとして運転されていました。しかし、東京駅の地下中央通路が混雑しすぎて捌ききれなくなったため、1976年にすでに開通していた東京トンネルを利用して品川駅までの限定的な乗り入れが開始されています。
結局、横須賀線との直通は1980年までお預けとなるのでした。
そして、ここでサムネ回収です。近郊電車の直通運転という、今では上野東京ライン、湘南新宿ラインなどで当たり前のように行われている運行形態ですが、その先駆けとなったのがこの総武快速線と横須賀線の直通運転なんです。開業当初は横須賀線が鎌倉や葉山のセレブが多く乗る路線だった一方、千葉方面は田舎者という印象の路線だったこともあり、「木に竹を継いだ」なんて言われていましたが、現在ではすっかり定着しています。
※:SM分離とは、当時東京〜大船間で同一の線路を使用していた横須賀線(列車番号S)と東海道線(列車番号M)の運転線路を分離する計画のこと。用地買収でかなりてこずった。
3-2.総武快速線全通
1981年7月6日には総武快速線が千葉駅まで全通します。この時も稲毛駅は相変わらず通過のままで、開業3ヶ月後の10月ダイヤ改正(※2)に合わせて停車するようになりました。その半年ちょっと後にあたる1982年の6月の時刻表が手元にありますので、当時のダイヤを覗いて見ることにしましょう。
※2:当時の大規模なダイヤ改正は10月だった
3-2-1, 基本形
当時は113系で運転されており、現在よりも最高速度が遅く加速性能も低かったため、千葉〜東京間に45分を要しています。現在よりも7分ほど長い値であり、表定速度は60km/hを下回る数字となっていました。本数も少なく、ラッシュアワーこそ毎時15本ほどが運転されていましたが、日中になると様子は一変。毎時6本から5本程度のみが運行され、津田沼始発が大変多く運転されていたことも相まって、千葉駅基準で見ると1時間近く電車が来ないこともありました。
そして房総各線との直通運転についてですが、この時点ではやはり成田線・外房線・内房線のみ快速電車の直通が行われており、総武本線・鹿島線への直通は急行・特急列車のみでした。なお、この時刻表の4ヶ月後には急行列車が全廃されて、特急列車への格上げが行われます。
そして、快速電車が運転されていた一部線区では、今よりも直通範囲が広く設定されており外房線は大原までの直通が行われていました。直通先での停車駅も絞られており、外房線列車は千葉から先は蘇我・誉田・大網・茂原・上総一ノ宮・大原のみ停車で、本千葉・鎌取・土気は現在と異なり通過。また、内房線列車も本千葉・浜野・長浦・袖ヶ浦を通過しており、成田線列車も物井と酒々井を通過していました。
そして現在と大きく違うのが特急列車です。現在は内房線、そして外房線に直通する特急列車は京葉線経由での運転ですが、当時は京葉線未開業かつ、成田エクスプレス運行開始前と言うことで線路容量にも余裕があった総武快速線経由で運転されていました。
ほかにも、今は消滅したモノとして急行列車があります。この急行列車群は両国駅または新宿駅を始発としており、特急列車との棲み分けがなされていました。総武快速線内では錦糸町と船橋、千葉に停車しており、急行料金も500円と案外廉価であるため、夕方には着席列車としての役割もあったのではないかなあと妄想…
3-2-2, 房総がアツい!夏ダイヤ!
ちなみにですが、海水浴客に対応するための「房総夏ダイヤ」実施時には、安房鴨川や館山始発の快速列車も愛称付きで設定されて多くの海水浴客を運んでいました。外房線は「白い砂」、内房線は「青い海」という名称で、さも特別感があるように感じますが、運転区間が長いことを除けばただの快速と変わりありません() 白い砂号、青い海号ともに、定期列車の運行区間を延長していたため、久里浜発館山行きや、久里浜発安房鴨川行きという化け物じみた列車も運転されていたそう… 青い海とか久里浜から浜金谷まで列車に揺られるくらいならフェリーに乗った方が数倍早いし安い
そして特急列車も面白いモノが運転されていました。それがこちら
号数から見れば何でも無いわかしおに見えるのですが、始発駅がヤベーです。そう大船です。所要時間3時間27分。そのうち東京までで大体一時間使ってます。壮大すぎる延長運転です。
いつかは房総夏ダイヤも記事にしてみたいなあ…
3-3.広がったり狭まったりの直通運転
さて、ここまで書いててアレですが運行形態関連って本当に資料がないんですよね。ヒーヒー言いながらwiki漁ってます。
そして今から書くことは民営化後の総武快速線と直通列車の変遷、そして総武快速線を走った“特別“な快速列車たちです。
3-3-1.新型車両、E217系を投入します。
1994年12月、それまでステンレス車と無縁だった総武快速線に新型車両が投入されます。みなさんご存知E217系です。その後、丸5年をかけて113系全車を置き換え、同時に総武快速線の最高速度は120km/hに引き上げられ、東京〜千葉間は現在と同じ38分で結ばれるようになりました。この車両は、混雑に対応するため普通車のほぼ全ての車両がロングシートですが、長距離旅客の利便性も考慮され、9号車〜11号車の3両だけはセミクロスシートとなっています。また4号車、5号車には2階建てグリーン車が連結されて一部車両のみ2階建てだった113系時代に比べてグリーン車の着席定員は、およそ1.2倍(ごく一部に存在した2両中1両が2階建ての113系と比較した場合。オール平屋の編成と比較した場合は1.5倍。)となり、有料サービスの向上にも貢献しました。
3−3−2.空港に、行きます。
さてまずは、総武快速線建設の目的の一部でもあった成田空港輸送です。
成田空港は1978年に開港した日本最大級の国際空港であり、今日でも羽田空港とともに日本の玄関口としての機能を果たしています。そんな成田空港から飛び立つお客様を運んでいた列車があります。その名は「エアポート成田」この列車は1991年の成田線空港支線開業時から運行を始めた列車で、下りの成田空港行きでのみ運行されていました。上りの成田空港発の列車はただの快速であり、東京から成田空港へ向かう人へのわかりやすさを意識した種別だったのでしょう。そんな種別ですから停車駅は通常の快速と変わりませんでした。前述の通り運行開始は1991年。それから25年以上にわたって成田空港への輸送を担っていたこの列車ですが、2018年に愛称の付与を取りやめてしまいました。理由としては、「外国人のお客様を中心に成田エクスプレスとの誤乗が発生していたため」とのことで、インバウンド旅行客が増加した時代の波に飲まれて消えた列車だったと言えるでしょう…
ちなみにこのエアポート成田ですが、ちょっとした変わり種が存在します。それは「特別快速エアポート成田」です。この列車は名前から分かる通り快速の上位種別です。1992年から1年間だけ運行された幻の列車ともいうべき存在です。停車駅は、東京・錦糸町・船橋・津田沼・千葉・成田・成田空港という飛ばしっぷり(当時は空港第2ビル駅は未開業)。「しおさい」「あやめ」といった特急列車の停車する佐倉駅でさえ通過していました。ちなみに前述の通り1年間で廃止されています。何があったかはお察しください…
ああああああ4500字疲れたああああ
3−3−3.特急の代わりに…
さて、お次は2年で消えた列車です。その名も特別快速。愛称はありません。そのまんま特別快速です。一応趣味者からは内房特快なんて呼ばれていました。さてこの列車、小見出しにも書いた通り、特急列車の代わりに設定されたんです。どういうことか見ていきましょう。
まずはこちらの時刻表をご覧ください。
これは2014年3月改正での内房線特急「さざなみ」下り列車の時刻表です。
次にこちらの時刻表をご覧ください。
2015年3月改正での同じ内房線特急「さざなみ」下り列車の時刻表です。何かお気づきになった方はいますでしょうか。
そうです。運行区間が短縮され、平日に館山まで行く特急列車が消滅しました。2015年3月改正。房総在住で私と同じかそれ以上くらいの人間にとっては衝撃の改正だったでしょう。この改正で君津〜館山間の定期特急列車が消滅、そして鹿島線・成田線では特急「あやめ」が廃止された改正でもあります。そんな特急「さざなみ」の廃止代替列車として運行が開始されたのがこの「特別快速」なんです。停車駅はこんな感じ。総武快速線内もここに記載のある駅のみ停車します。
この列車の最大の特徴はとにかく速いこと。木更津駅を20分後に発車する快速電車がありますが、東京駅到着時にはその差はなんと41分にまで拡大しています。そんな爆速の特別快速ですが、2年後の2017年改正で消滅します。どうして2年であっけなく消えてしまったのでしょうか?
ここからは少し私見が入ってしまうのですが、大きな要因として設備格差があると考えます。というのもこの特別快速列車は、一応館山行き/館山始発ですが、すべての車両が館山に行くわけではありませんでした。下り列車が東京を出発した時点では、グリーン車&ボックスシート付き基本編成とオールロングシートの付属編成が併結した堂々15両編成ですが、そのうち館山まで辿り着けるのは付属編成4両のみ。
すなわちオールロングシート4両編成です。グリーンもボックスも全部木更津に捨て去って館山まで進みます。さて、ここでこの列車が設定された経緯を思い出してみましょう。そう、「特急列車の代替」です。ロングシートで特急列車の代替ができるだろうか(反語)。まあ乗客数も奮わなかった上に、木更津駅での増解結、半日ニートな基本編成など、運行上めんどくさいところもあったのではないかなあと考えます。
3-3-4.今じゃ考えられない!?あそこに毎時1本も!?
さて、皆様お待たせいたしました。鹿島線&成田線佐原方面の登場です。この鹿島線方面ですが、現在では考えられないぶっ飛んだ運行形態をしていたようです。
当時の運行形態を知る前に、まずは今の運行形態を確認しましょう。朝に上り一本&夕方に下り一本。以上。すっくな。何を隠そう、総武快速線系統で一番本数が少ないです。1日1往復です。4両編成での運転で、それぞれ佐倉駅で11両編成と連結または解結します。また、鹿島線内で1往復のみアルバイト運用があります。そしてこの鹿島線直通ですが、今の運行形態でも一つ大きな特徴があります。
その特徴とは、総武快速線系統を走行する列車で最長距離を走る列車の直通先であるという事です。その列車こそ1678S〜1679F〜4679F〜2545Mです。列番変わりすぎやろ。始発駅はなんと久里浜!久里浜から鹿島神宮まで、186.4kmを3時間48分かけて走り抜ける超ロングラン列車です。…と、言い切りたいのですが、この列車、久里浜駅出発時点では11両編成です。そう、基本編成のみです。鹿島線に直通するのは先述の通り付属編成4両。途中の逗子駅で増結される編成が鹿島神宮まで走るのです。そのためこの列車は、列車番号のつながりで言えば久里浜始発なのですが、実際の運行区間は逗子から鹿島神宮なんですね。それでも170kmですがね。しかも付属4両だからオールロングです。絶対耐久したくない((((
そして最初に申し上げた通り、こんなもんは序の口です。なんと驚くべきことに、2004年までは日中にもこんな列車が運転されていました。もう一度言います。日中にも運転されていました。今では日中2時間間隔でワンマン運転の鹿島線に総武快速線直通電車が1時間間隔で運転されていました。しかも成田〜佐原間無停車。ぶっ飛んでやがります。最初にこの情報に接したときは信じられませんでしたが、本当に運転されていました。お見せできる写真が無いのは無念ですが、もし気になる方がいらっしゃいましたらTwitter等で調べてみてください(他力本願寺)
3-3-5. 一応本線 総武本線
さてここからは名ばかり本線ランキングで上位に入りそうな路線総武本線です。地元路線なので散々にdisります。千葉口房総ローカル路線で旅客案内上の単独区間で唯一複線区間がありません。近代化の波に取り残されました。そんな路線ですが、一応総武快速線直通列車があります。
運行開始は1991年。当時は八街駅までの乗り入れで、朝の1本が4両編成で運転されており、佐倉駅で基本編成11両と連結して運行されていました。1999年に直通範囲が成東駅まで拡大して、11両運転も開始されています。現在は朝方の上りが1本と夜に1往復の運転で、ともに成東まで/成東からの運転です。朝の一本は、佐倉駅電留線で夜間滞泊を行った車両をわざわざ回送して運用します。また、佐倉以東の区間は列車によって停車駅が違うのがポイントです。
朝方の上り列車は、前述の通り基本編成11両で運転されるため、ホーム有効長の足らない日向・榎戸・南酒々井は通過です。実は単線区間で通過運転を行う2階建てグリーン車はここだけだったりします(来春以降のホリデー快速おくたま…?んなもん知らん)。一方、夜の1往復は佐倉駅で成田空港行き/成田空港始発の列車と増解結を行うため4両編成での運転です。これならどこの駅のホームにも収まるため佐倉以東の各駅に停車します。っていうか佐倉で種別変更するので佐倉以東は普通列車です。なお、遅延が発生すると佐倉での切り離しは一瞬でキャンセルされ付属4両も成田空港に持って行かれます。悲しいね。
3-3-6.民営化後も一応あったよ 房総夏ダイヤ
さてここからは民営化後の房総夏ダイヤです。その特徴はなんといっても列車名!国鉄時代の青い海、白い砂といった簡単な名前ではなくなりました。1990年以降の房総夏季ダイヤでは、内房線経由は「シーサイドライン内房」「ホリデー快速シーサイドライン内房」「ホリデー快速内房」「ホリデー快速青い海」、外房線経由は「シーサイドライン外房」「ホリデー快速シーサイドライン外房」「ホリデー快速外房」「ホリデー快速白い砂」などといったなんともまあJR東らしい臨時快速が運転されていました。海水浴に対するワクワク感を誘う列車名ですが、海水浴ブームそのものの衰退や、房総方面にも高速道路網が整備されたことで、利用者数は減少の一途を辿ってしまい、1998年で房総夏ダイヤというものは終わりました。
民営化後に限らず、房総夏ダイヤ実施期間中はなかなかとんでもない列車が多く設定されており、あずさ号の館山延長運転などの変わりダネがたくさん運転されていたようです。
3-3-7.ここにもあった!通勤快速
さてお次は通勤快速です。千葉方面で通勤快速と言いますと、今年の3月ごろに大騒ぎになった京葉線の通勤快速を思い浮かべる人も多いと思われますが、総武快速線でも運行されていました。停車駅は、東京•新日本橋•馬喰町•錦糸町•船橋•千葉と、千葉から先は全ての列車が成田線に直通し、千葉•都賀•四街道•佐倉•酒々井•成田•空港第2ビル(一部の上り列車のみ)•成田空港(一部の上り以下略)で、総武快速線内で津田沼も通過するなど、完全に遠距離客向けの列車となっていました。下り列車は東京始発•成田行きとして運転されており、市川では先行の快速を追い抜くなど、優等列車の名に恥じない走りを見せつけていました。
一方、上り列車は成田始発と成田空港始発が運転されており、朝ラッシュの過密運転の中で追い越しをする余裕はなかったようで、前の快速に続いて走ります。そして、下り列車と異なる特徴はもう一つあり、東京駅到着後はそのまま横須賀線に直通していました。
途中駅利用者の増加に伴う、近年の近距離旅客優遇政策も一因となって2022年3月改正で廃止となりました。
乗ってみたかったなあ…
3-3-8.特急列車
現在、総武快速線には定期特急列車が3種類と、臨時特急列車が2種類運行されています。
まずは特急しおさい号です。この列車は、東京駅から千葉駅まで総武快速線を経由し、その先は総武本線に直通して銚子まで運転されます。一部の列車は佐倉駅を始終着としているほか、平日1往復だけ成東駅発着の列車もあります。主なターゲットは平日と土休日で異なっており、平日は東京へ通勤するサラリーマンや、銚子方面への出張客がメインのターゲット層ですが、土曜休日は銚子への観光客がメインの乗客となり、平日、土休日ともに一部列車では満席となることもあります。特に平日のしおさい2号は高頻度で満席となっているようです。
次は成田エクスプレス号です。この列車は、大船または新宿を始発駅とし、成田空港駅まで運行される空港アクセス列車です。終日を通して多くの列車が運転されており、1日あたり27往復が運行されています!しかしながら、半分ほどの列車は東京を出ると空港第2ビルまで停車しないため、ただ通過待ちをさせてくるだけの列車と化すこともしばしば… そんな成田エクスプレスですが、近年は日中の千葉駅停車が始まったり、夕夜帯の千葉停車が拡大されたりと、千葉から先の途中駅へ赴く人には嬉しいニュースも入っています。東京〜千葉?しらね
ちなみにしおさい号、成田エクスプレス共に、使用車両はE259系です。
最後にあずさ号です。みなさんご存知の中央線特急ですが、1日1往復だけ総武快速線に乗り入れて千葉駅まで運行されています。なんでも新宿からは成田エクスプレスの止まらない船橋付近へのホームライナーの様相を呈しているとかなんとか…
ちなみに朝の松本行き列車ですが、数年前までは南小谷行きとして運行されており、運行距離341.6km、JR東日本管内を走る最長特急列車でした。
現在では松本行きとなっていますが、それでも長いことに変わりはない()
4.まとめ
さて、総武快速線の魅力をご堪能いただけたでしょうか?速すぎる特別快速に愛称付き快速、走行距離170km越えの長距離列車など、魅力あふれる列車の走行するこの路線は、いつ乗っても、撮っても、飽きません。
現在はグリーン車に車内公衆無線LANが設置されたE235系の投入が進んで接客設備が向上するなど、日々進化を続ける総武快速線。E235系は、現在E217系と共通運用を組ませるために車両性能を抑えているとの噂もあり、今後は速度向上にも期待がかかります。一方、長距離列車、特に特急列車に関しては減便や減車などのマイナスな話題が絶えず、今後に対する不安の声もあります。それでも日夜数万人の乗客を運び続けるこの路線。これからの進歩に期待しながら動向を見守っていくことにしましょう。
最後に、こんな乱文を読んでくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。今年はこれ以降記事をあげなさそうなので「よいお年を!」とも言っておきましょうか。来年1発目の記事はバケモンコスパのフリーきっぷに関するお話をするつもりですのでお楽しみに!
この記事を書いた人
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子供のころ、じいちゃんと江戸川土手でよく見てました113系総武快速。
千葉公園のプール行くのに、津田沼から各駅停車線でのろのろ…幕張で追い抜きもあったなぁ…
一部13両編成や、サハ代用クハ、冷房準備車等…当時は急行内房・急行外房より早かった記憶があります。
「白い砂」「青い海」懐かしいデス!房総夏ダイヤの時だけ時刻表買ってました。
G車で1両だけ湘南色だった時や、特急G車改造の「化けサロ」、ほとんど見かけなかった1500番台
ガンプラブームの時は、快速の一番電車で船橋東武並びに行ったり 好きだった洋楽のロングバージョン
の演奏時間が市川~船橋間とピッタリだったのを覚えています。
113系時代をご存知なのは羨ましいです…
幕張駅で追い抜きがあったのは知りませんでした。やっぱり津田沼から先はノロノロだったんですね(苦笑)
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